大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

生玉地下壕(いくたまちかごう)

  
地下壕の通気口(右)↑

入り口はコンクリートで閉鎖されている。

 谷町9丁目交差点の南東200mほどのところに生国魂(いくだま)神社がある。生国魂(いくだま)さん(大阪では親しみをこめてこう呼ぶ)の南の方にあるのが生玉公園である。生玉公園は1942年に開園したというが、この公園の地下に立派な地下壕(ちかごう)が存在する。

西側の崖の斜面を掘り抜き、西側と東部上部に出入り口が作られた。内部はアーチ状のコンクリート2階建てで、1階部分の広さは203平方メートルというから体育館くらいの広さはあったようだ。

 この地下壕(ちかごう)は1940~41年に完成したというから、公園ができるより先にこの地下壕は作られたということだろう。戦争末期には陸軍(りくぐん)船舶通信隊 (せんぱくつうしんたい)が使っていたということである。

 戦後はホームレスの居住地となり、内部で煮炊きなどもされ、破損もひどくなったので入り口は完全にセメントでぬりこめられ、現在は内部に入れない。

 この壕の建設には強制連行などで集められた朝鮮人が過酷な労働をさせられた。近所の人の話を聞くと数人の人がお参りに来て韓国風のおまいりをするとのことである。

 

1996年に大阪市が説明板をとりつけた。
以下はその内容である。

生玉公園地下壕

 先の戦争において我が国はアジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことをわすれてはなりません。また、大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。

 生玉公園は1940(昭和15)年5月着工、42(昭和17)年5月に開園、地下壕は当時郡部が戦局を拡大させる中で空襲に備えるための「都市防空壕」として大阪市によって建設された。

 地下壕については、その建設経過や使用状況などの詳細は明らかになっていませんが、戦争末期には陸軍が使用していました。戦後、米国戦略爆撃調査団により刊行された報告書では、当時、一般では入手できなかった資材を使用して建設された「特別防空壕」の例として報告されています。

 また、この地下壕建設にあたっては、当時の植民地支配の下で「強制連行などにより集められた朝鮮人が苛酷な労働に従事させられた」との体験者の証言があります。

 戦後の50年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。

1996年(平成8年)3月 大阪府/大阪市

地下壕の構造

 内部の構造はアーチ状で鉄筋コンクリート造り、2階建て(ただし2階部分は現存せず)で、本体は幅約9m、高さ約6.5m、長さ約24m、1階部分の床面積203平方メートルとなっています。

案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

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