大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

住之江区の戦争記念碑・忠魂碑・慰霊碑

 1904年から5年にかけて行われた日露戦争は日清戦争にくらべて参戦者・戦死者の数を激増させた戦争だった。

 「国内には10万世帯を超える軍人遺家族が出現した。日露開戦による国家意識の高まりと遺族の急増によって、戦争中から戦後にかけて、全国各地で戦没者のための記念施設の建設がにわかにさかんとなった。戦没者を郷土の誇りとする宣伝が行きわたり、靖国神社への合祀に呼応して、民間の有志によって招魂社がつくられ、神社、寺院の境内や公園、学校等に招魂碑、忠魂碑、弔魂碑、忠死者碑等の記念碑がぞくぞくと建てられていった。」

-「慰霊と招魂」村上重良 岩波新書-

 大阪市内でも神社の境内中心に続々と立てられている。日露戦争は「明治37・38年戦役(せんえき)」というのが当時の言い方であった。その後の忠魂碑や慰霊碑と違って、日露戦争で戦士した兵士の名前だけでなく、戦争に参加した兵士の名前全部を書いてある碑も多い。「戦捷碑」(せんしょうひ)「凱旋碑」「記念碑」というものが多い。

 

(左後)日露戦役従軍者紀念碑    
(左前)忠魂之碑          
(右後)明治27・8年戦役従軍者紀念碑
(右前)昭和戦役英霊之碑      
(霰松原公園)

 安立小学校の近くにある霰(あられ)松原公園は、もと安立町役場があったところである。江戸時代中頃までは、ここが海岸線で松原が続いていた。
 「明治27・8年戦役従軍者紀念碑」は1897(明治30)年5月建立で、日清戦争の記念碑は数少ない。「日露戦役従軍者紀念碑」は1906(明治39)年4月10日建立。あとは戦後の1953(昭和28)年の建立。「忠魂之碑」は大阪市長中井光次書、「昭和戦役英霊之碑」は大阪府知事赤間文三書。

 日露戦争以後も日本は、朝鮮・台湾を植民地として支配し中国とのはじめ中国・アジア太平洋諸国への侵略を広げていった。
1914(大正3)年 第1次世界大戦参戦
1918(大正6)年 シベリア出兵
1931(昭和6)年 「満州事変」
1932(昭和7)年 第1次上海事変 「満州国」建国
1937(昭和12)年 廬溝橋事件 日中全面戦争(「支那事変」)の発端 上海事変 南京事件
1940(昭和15)年 日本、北部仏印(フランス領インドシナ)侵入
1941(昭和16)年 真珠湾攻撃 太平洋戦争

 それに伴い、兵士として命を落とす人も増えていった。
 国にあっては靖国神社、大阪府にあっては護国神社、地域では忠魂碑が祭祀の場とされていった。
 大江志乃夫氏の「靖国神社」という本では次のように解説されている。
「忠魂碑建設の主体は、日露戦争直後においては、このように多様であったが、1910(明治43)年に帝国在郷軍人会が結成されると、以後は在郷軍人会の各町村分会が建設主体となったものが多くなった。」
「忠魂碑の主要な建設主体であり、所有・管理・祭祀主宰の主体は帝国在郷軍人会の各地の支部分会であった。帝国在郷軍人会は、国民皆兵の徴兵制のもとで、予備役後備役退役将校・同担当官、予後備役下士卒、帰休兵、第一補充兵、海軍予備員、第一国民兵役にある者および六週間(短期)現役を終わって第二(一)国民兵役にある者(=師範学校を卒業して義務教育つまり小学校教師の職に従事している者、カッコ内は制度改正による変更)を強制加入の正会員とし、一部の現役将校・同担当官を特別会員とし、陸軍大臣および海軍大臣の監督下にある軍事組織である。」
「忠魂碑は国家レベルでの靖国神社と同様に、公的な軍事組織の所有する公的な祭祀の対象であり、招魂祭という靖国神社祭祀に固有の宗教儀式の対象としての宗教施設であったということができる。
 帝国在郷軍人会は、敗戦直後の1945年8月30日に解散し、帝国在郷軍人会令は、同年11月25日に廃止された。その本部財産は収公され、忠霊塔・忠魂碑等については、翌年11月27日に撤去の通牒が内務省から出された。」

-「靖国神社」大江志乃夫 岩波新書-

 


忠魂碑
(敷津浦小学校 校庭)

 もともとは、1925(大正14)年の建立である。戦後、いったん撤去されたが、連合軍の占領終了後に「戦災戦歿慰霊」の文字を彫り込んで再建された。碑は南側の道に面しており塀の外から見えるが、碑のところへは敷津浦小学校の運動場からしか行けない。厳密にいうと校庭とは区別された一画かもしれない。


案内人 柏木 功

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