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大阪護國神社

  日中戦争による戦没者の急増とともに、各地で招魂社の創建と記念碑建立の動きがさかんとなった。1939年3月内務省は招魂社の社名を「護国神社」と改めるむねを公布し、道府県あたり1社を基準に、北海道護国神社以下34社を指定した。指定護国神社は、都道府県社に準ずる社格で、原則として所在する府県に関係する靖国神社の祭神を合祀することが規定された。

 大阪における護国神社の創建はこうした流れの中で国策としてすすめられた。いわば大阪の靖国神社である。

 「知事・市長・商工会議所会頭等の主唱のもとに奉賛会を組織し、1939(昭和14)年6月神社創立の許可を受け、翌(1940年)5月4日鎮座祭を執行した。創建の場所はもと府立住之江公園の敷地内で、その土地埋め立ては一般の勤労奉仕によった。」(昭和大阪市史 1953)

 このように行政の主導で、「勤労奉仕」という名の無償動員で湿地を埋め社地がつくられた。人材と資材の不足で本殿建築までにならず仮社殿で鎮座祭を行った(本殿ができたのは1963年)。

 天皇の名で戦場にかりだされ亡くなった兵士たちを神としてまつり、戦争を続ける精神を養う場であった。


案内人 柏木 功

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