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「真心」碑

刻印広場 左側、ちょうど人がいる横の小さな石がこの碑

  

 山里曲輪のあったあたり、「刻印広場」の一角に、小さな目立たない碑がある。
碑には「真心」とだけ書かれている。碑の裏には次のように書かれている。

 旧中部第三十五航空情報隊
  女子防空通信手有志
   昭和四十一年十一月吉日

 ここ山里曲輪のあたりには太平洋戦争の終わり頃、女子防空通信隊(翼隊)の宿舎があった。1945(昭和20)年6月1日の空襲で焼夷弾により焼失した。

 太平洋戦争も末期になる1943(昭和18)年、軍では兵隊を前線に送り込むため、女子でもできる仕事は女子にということで軍属として「女子防空通信手」を採用することにした。高等女学校卒業程度の学力を求め、府下全域から募集し、約10倍の競争率であったという。1945(昭和20)年には、全体で300名が100人ずつ3組に編成され、常時2組が城内にあり、48時間のうち防空庁舎勤務と宿舎での内務を交代で勤め、1組は非番だった。

 勤務していた防空庁舎は桜門内側左側の堀端にあった。迷彩をほどこしたコンクリート3階建、1階は半地下になっていて、空気抜きの小窓があるくらいのトーチカのような建物だった。(名古屋では250キロ爆弾の直撃に耐えるようにつくられたという)

 採用された女子防空通信手は全国の航空基地、要塞・監視哨の位置、電気、電話、航空機の機種の種別、航空情報機の操作、軍の略号速記などの教育を受けた後、配属された。関係府県庁への連絡、警報の伝達、電話交換機係、民防空監視隊本部及び電波警戒小隊よりの情報表示、海上の船舶、離島からの略号による無線航空情報の翻訳などに従事した。

 各地の防空監視哨から発見哨名・発見時刻・発見方向・敵見方の区別・機種・機数・高度・飛行方向が有線・無線で送られてくる。それを軍略号でメモして届けたり、電鍵操作により情報提示機と地図版に色ランプによって作戦室の表示板に表示したりする。これらの情報をもとに作戦室で参謀達が分析判断し空襲警報や警戒警報、命令などを出した。

 その結果、ラジオ放送が「中部軍管区情報 敵数百機 紀伊水道を北上中」などと放送したり空襲警報を伝えたり、街中らサイレンがなり、警防団が警報を各戸へ伝え消火準備にかかり、、防空戦闘隊は迎撃に発進、高射砲部隊は砲位置につくのである。

 作戦室の参謀が接する情報はすべて女子防空通信手の手を通ったものであった。彼女たちは突然とびこんでくる情報を正確に記録、表示することに神経を集中し、大阪城や砲兵工廠(当時は「陸軍造兵廠」)への爆撃中もその部署を離れることはなかった。それが戦争であった。

参考にした資料   「大阪大空襲体験記」第五集 1975年 大阪大空襲の体験を語る会
            「母たちの遺産 旧翼隊女子隊員の記録」安藤吉枝 新風舎 2004年
     朝日放送テレビ2005/05/12(木)放送「Newsゆう 語り継ぐ戦争(10)大阪を守った女たち」

 中部軍情報放送要図の一部 黄色の矢印が大阪から100kmをあらわす円

 当時の新聞は「大阪へ西からくるときは100キロ圏内に入ってから9分くらいでもう大阪市だ。しかし、放送される情報はすこしずれがあったこれを勘定(かんじょう)に入れねばならぬ。すると5分程度しか余裕がないことになる。」と書いている。

案内人 柏木 功

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