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外島保養院記念碑

 

  西淀川区の中島2丁目、工業団地の端、中島川の堤防フェンスの中にその碑はあった。大阪にあった「ハンセン病」患者の施設である。国道43号線から中島方面という標識を頼りに車で10分も走っただろうか。尋ねた2人目の人が場所を教えてくださった。大阪市などの第3セクター「フェニックス大阪 大阪湾広域環境整備センター 大阪事務所」の正面、道路をはさんだ向かいの右側、堤防フェンスの中に、鍵付きのフェンスの中に碑はあった。

 記念碑には次のように記されている。抑えた表現の中に元患者たちの思いを読みとりたいと思う。そして子どもたちに語り伝えたい。

外島保養院記念碑

明治四十二年四月法律第十一号ニ基ヅキコノ地ニ第三区府県立「外島保養院」設立サレル

 即チ 大阪府主幹ノモト京都 兵庫 奈良 和歌山 滋賀 三重 岐阜 福井 石川 富山 鳥取ノ二府四県連合ニヨル 公立ハンセン病療養所トシテ開設サレタノデアル

昭和九年九月二十一日室戸台風ノ襲来ニヨリ施設は壊滅流失 患者百七十三名職員三名職員家族十一名ガ死亡スル大惨事トナリ生存患者四百十六名ハ全国六施設ニ分散委託 昭和十三年四月岡山県長島ノ西端ニ名称ヲ光明園ト改メ復興昭和十六年国立移管 邑久光明園ト改称現在ニ至ル

 平成八年「らい予防法」廃止サレル 強制収容絶対隔離ヲ根幹トシタ日本ノハンセン病対策ノ終焉ヲ記念シ外島保養院ノ日々ニ思イヲハセ茲ニ記念碑ヲ建立スルモノデアル

 平成九年十一月 邑久光明園入園者自治会

 この外島保養所で、人権擁護の闘いがあり、それにたいする特高警察などの弾圧があった。小山仁示氏の「戦争 差別 公害」(解放出版社)や藤野豊氏の「「いのち」の近代史」(かもがわ出版)に詳しく紹介されている(小山氏は同書で「日本近代史のなかで、ハンセン病患者のたたかいほど苛烈なものはない。外島保養院は、その苛烈なたたかいで大きな役割を果たした」と紹介されている。いわゆる「外島事件」)。

 部落問題研究所文芸部会の秦重雄さんは詩人の三好達治と外島保養院のかかわりについて次のように紹介されている。

 「(1927年からの院長村田正太(まさたか)は)ハンセン患者を人間として処遇し、外島を彼らの理想郷にしたいと考えていた医学者であった。患者の自治活動を支援し、文化活動やスポーツをすすめ、逃亡防止用の監視所を取り払った。図書室にはニーチェからマルクスの書物までがそろっていたという」
と関西大学の小山仁示名誉教授の「外島保養院事件」(「戦争 差別 公害」(1995年 解放出版社)所収)に詳しく書かれています。
 その自由な運営を嫌悪した特高警察の弾圧が1933年にあり、翌34年9月21日の室戸台風で外島保養院は多大の犠牲を出して、壊滅・流失してしまいます。
 詩人の三好達治の母親が西淀川区大和田町に住んでおり、「神崎川附近」の題で帰郷した達治は詠じています。

海近き
春のはじめもかなしけれ
癩(らい)病院の
屋根の赤旗

鳶(とび)一羽
甘藷(かんしょ)畑に下りんとす
癩(らい)病院に
近き河じり
           (短歌集「日まはり」1934年)

 33歳の達治が遠くから詠嘆のまなざしで見たものは、科学とヒューマニズムの実践が人知れず行われていた場所だったのです。

    

右の「フェニックス大阪基地」の看板の前から東北方向を撮る。
後ろに見える橋は中島新橋。

 左は廃棄物の船積場 その門のすぐ横に碑(矢印)はあった。このセンターは市内と近辺のゴミ焼却場から出る灰を集めて船に積むところだという。行き先は泉大津沖という。

 

中島の外に外島があり、そこに外島保養院があった。
この戦前の地図をたよりに碑を探し当てた。


案内人 柏木 功

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