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空襲で消えた国民学校(浪速区)

 

 1945(昭和20)年の空襲により浪速区は壊滅した。1944年2月には13万2345人いた浪速区の人口が、1945年11月にはたった5684人に激減した。95%の減少率である。減少率は港区の96%に続くものだが、わずか5684人という数は全市の最低である。「浪速村になった」と言われたほどだ。
 学校にも被害をもたらした。校舎が全焼した学校、鉄筋校舎だけが残った学校。校舎は残ったものの校区が焼き尽くされ子どもたちがいなくなり休校とされた学校。その結果、浪速区で、ここに紹介する学校が消えていった。
 3月13・14日の空襲は浪速区をほぼ焼き尽くした。学校の被害も相当なものである。

3月13・14日の空襲
全焼 南栄 東栄 塩草 稲荷 戎 
半焼 立葉 難波 芦原 大国 元町 敷津 恵美 浪速津 日本橋 逢阪
6月15日の空襲
半焼 元町

 戦災で廃校とならなかった難波小学校も休校となり、元町校に統合、再開したのは1956(昭和31)年のことであった。(明治7年創立の浪速区で最も古いこの学校も、都心部の過疎化によって昭和60年、元町小学校と統合、閉校となる。跡地に碑が建てられている。)

 塩草小学校の再開は1951(昭和29)年
 敷津小学校の再開は1953(昭和28)年
 日本橋小学校の再開は1949(昭和24)年

 

 逢阪国民学校
(天王寺第3尋常小学校)

 今は建設局、逢下会館、日東南保育所などになっている。3月14日の空襲で校舎は半焼。地域が焼きつくされて日東小学校に統合され廃校となった。

 

浪速津国民学校
(恵美第2尋常小学校)

 もとの恵美第2尋常小学校。現在の日本橋中学校の場所がその跡地である。3月14日の空襲で半焼。地域が焼き尽くされ、恵美小学校に統合、廃校となる。

 

戎国民学校
(恵美第3尋常小学校)

 今宮高校の東側、今は法務局になっている。3月14日の空襲で全焼となり、恵美小学校に統合、廃校となる。

 

芦原国民学校
(難波第9尋常小学校)

 JR芦原橋駅を北西に行くと「東洋紙業」の建物がある。そこが芦原国民学校の跡地である。3月14日の空襲で校舎は半焼。校区が全焼したため戦後廃校となった。立葉小学校に統合。

 

桜川国民学校
(難波第7尋常小学校)

 

 地下鉄桜川駅西南側、公団団地・ショッピングセンターが跡地である。西側に碑が建てられている。校区が全焼のため、立葉小学校に統合され廃校。被災をまぬかれた校舎は、大阪市立大学が入っていた。大阪市立大学は戦後、米軍に接収されたため学部ごとに市内の国民学校跡などに分散して仮住まいを余儀なくされた。

 

稲荷国民学校
(難波第6尋常小学校)

 3月14日の空襲で全焼。元町小学校に統合され廃校となる。跡地には大阪市営稲荷住宅1号館が建つ。

 

東栄国民学校
(栄第2尋常小学校)

 3月14日の空襲で全焼。栄小学校に統合され、廃校となる。跡地に今は浪速地区青少年会館などが建つ。

 

南栄国民学校
(栄第3尋常小学校)

 高等科だけの国民学校だった。3月14日の空襲で全焼。今宮駅の南側、今は市営住宅が建つ。

参考にした図書
・「消えたわが母校 なにわの学校物語」 赤塚康雄著、柘植書房
・「続 消えたわが母校 なにわの学校物語」 赤塚康雄著、つげ書房新社


案内人 柏木 功

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