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和光寺の「和光地蔵尊」

   

 和光寺は浄土宗善光寺の末寺で、尼寺。欽明天皇のとき、蘇我氏と物部氏が百済から渡来した仏像で争い、物部氏が難波の堀江に投げ込んだ仏像を、本多善光が、このあみだ池から拾ったというと言う伝説で有名な寺である。この和光寺は、1698年(元禄11)、堀江新地開発の時、幕府の命により境内1800坪を永代寺地に定められ、智善上人が寺堂を建立したのが始まりと伝えられている。戦前までは、境内もかなり広く、露店が並び賜わった。空襲で全焼する。残ったのは、西の円とそれに続く塀(門は最近修復さたが古い木材は見ればわかる。塀の下の石組もわかる)、「あごなし地蔵」のお堂(土蔵造りだったので、当然お地蔵さんも助かる)、池の前の大きなお地蔵さん(金属供出を免れたが、後ろの光背が吹っ飛んだとのこと)だけが残った。

 3月13、14目の大空襲で此付近は全焼。長堀川にあった死体も含めて、此付近の死体を、警防団が堀江小学校に集めた。そして、遺族の引き取り手を待っていたが、しばらくすると、遺体は腐乱し始めるし、野犬に襲われ始めたので、引き取り手のない遺体は、ここに移し荼毘にもふさず、そのまま埋葬したと言う。これが、その塚である。

 塚の上の右手の碑には、次のように彫られている。

       序

 昭和16年12月8日、大東亜戦争が開始され、破竹の勢いの我方も戦局次第に不利となり、我本土への敵機の空襲も頻々となりたり。特に昭和二十年三月十三日、大阪を襲いたるB29の大編隊の午后十一時より翌未明に至る迄の波状爆撃は実に凄惨を極め、商都大阪の街は全く焦土と化したり。戦火は斯くおさまり廃墟となりし地上には死屍累々としての惨状名状すべからず、子は親を求め、親は子を探す姿、真にあわれにて目を覆うものあり、むなしく百五十有体は遂に無縁となる。よって地元有志並びに警防団員の献身的な努力により、浪速の名刹 和光寺境内にねんごろに之を葬むる。

 爾来星霜を重ね、ここに二十五回忌を迎えるに当り、地元各団体並びに寺縁関係者発起となり大法要を営み地下に眠る精霊の冥福を祈念して是に碑を建て祈念とす。

      合掌

  裏に、昭和四十四年三月十三日建之とある。

 

 

 東門のそばに、「忠魂碑」がある。これもどうやら金属供出を免れたものらしい。明治三十七、八年戦役と見えるから、日露戦争のものである。この戦で、北堀江では、24人の戦死者を出し、その氏名と階級がわかる。そばに「大東亜戦争戦没英霊之碑」がある。由緒はわからない。


案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

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