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土佐稲荷神社

    

 まず、この神社の紋を見ていただきたい。なんと三菱のスリーダイヤ。この神社の玉垣にも、三菱グループの名前ばかり。そう三菱グループ発祥の地である。
 毎年4月の初めに、三菱グループの各社の代表が集まり、三菱の発展を願う祈祷祭が行なわれている。

 この神社の北を流れていた長堀川(現・長堀通)に沿って土佐藩の蔵屋敷があり、この蔵屋敷の中にこの稲荷神社があった。享保年間に、藩主、山内豊隆の崇拝するところとなり、蔵屋敷の鎮守神として崇められることとなった。山内家は参勤交代の時には、必ず立ち寄り敬意を表わし、造営修復は藩費を以てするようになった。
 明治初年、岩崎弥太郎が総支配人として赴任し、維新後まもなく、弥太郎の所有するところとなり、彼は稲荷杜を尊崇し、この地において事業を営なんだ。というわけで、三菱発祥の地となる。やがて、社殿も立派にし、「土佐稲荷神社」と呼ばれるようになった。
 弥太郎は、36才から40才まで、この地で活躍した。彼の屋敷は、此神社の東にあった。コーポの間に楠(この楠も空襲で樹肌が焼かれたが、蘇えった)の見える下に「岩崎邸跡の碑」がある。
 土佐稲荷は、明治20年頃、大拡張を行ない、桜を植え、今の神社の形になった。

 土佐稲荷神社は、なんといっても「堺事件」で有名である。1868年(慶応4年、明治元)2月15日のフランス兵殺傷事件で、20名が切腹することになり、29名の者が、この神社で、「くじ」を引いて決めた。くわしくは、森鴎外の「堺事件」を読んでください。

 1945年(昭和20)3月13日14日の第一次大阪大空襲で全焼した。灯籠などが黒く煤けているのがそうである。灯籠の傘などが欠けた有名な「土佐稲荷の欠け灯籠」もあったのだが、今の本殿を造るときに処分したとのこと。そこへ4年前の阪神淡路大震災で、空襲で弱っていた灯籠や鳥居が倒れ、更に処分したとのことである。本殿前の青銅狛犬、三菱2代目の、岩崎弥之助(弥太郎の弟)が、持っていた狛犬を寄進したものだが、戦争中の金属供出をまぬがれ、今の場所より少し南に置かれていたので、助かったとのことである。しかし、かなり痛んでいる。


案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

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