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竹林寺の「焼け地蔵」

  

 竹林寺は江戸初期の寛永元年(1624)に九条島を開いた池山新兵衛(この地の有力者)と香西皙雲(こうさいせきうん-幕府の役人)によって建てられたという。
 浄土宗の寺。敷地は今よりも広かったという。境内の無縁仏の碑(かなり大きく明治37年7月の銘がある)の前にお地蔵さんがありかなり風化したので更にその前にお地蔵さんをつくった。その前の石の碑には昭和6年9月、第2回無縁塔とあるから、その頃つくられたのであろう。そしてその地蔵堂も作られたらしい。そして昭和20年(1945)3月13日から14日にかけての第1回大阪大空襲でこの付近一帯は全焼してしまいこの地蔵堂も焼けこのお地蔵さんも黒焦げになりやがて右手首もとれてしまった。
 今も黒こげのまま平和を願って 静かに頬えんでおられる。

  
↑松島公園の通信使碑

 この竹林寺についてもう一つ。この寺は「朝鮮通信使」でも有名である、「朝鮮通信使」は江戸時代に12回来たが、彼らは主として瀬戸内海まで船で来て、この川口で船を降り、舟を替え、京都へ向かった。その時この竹林寺が宿舎にもなったようだ。この竹林寺には明和元年(1764)この寺で病気で亡くなった金漢重(キムハンジュン)の墓があり、また今の北御堂で通訳に殺された崔天淙(チェチョンジョン)(朝鮮人参のもめごとが原因とのこと)の供養もこの寺で行なっている。この寺のそばの公園に「九条島と朝鮮通信使」の碑がある。
 また大逆事件で処刑された幸徳秋水の墓があったが現在は故郷の高知県中村市に引き取られている。


案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

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