大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

西六平和塔
(さいろくへいわとう)

 「戦争はいやや西区平和展実行委員会」編の文集「戦禍に追われて(3)」に収録されている光禅寺住職夫人の話によると、
 昭和32、3年のころでしたが総代で新町の役員もしていた児島さんが来られて「戦争で亡くなった方、戦病死した方々を慰霊する平和塔を西六町会として建てたい。ついては場所をお寺の中に」とのことでした。その頃は境内も今の3倍か4倍ありましたので承知しました。
 その後、市道に土地を提供したりして境内が狭くなりましたので、新町南公園に移し、さらに今の西六福祉会館が出来たとき会館わきの敷地に移したもの。前には、法要もして、市長さんが来られたりしたものですが、当時の方も次々と亡くなって、最近は法要することもなくなりました。」
と、あります。

 碑の表面には

  西六平和塔   大阪市長 中井光次 書
 満州事変 日華事変 大東亜戦争を通じ当地区からも多くの人々が出征し国難に殉じました。また昭和二十年三月十三日夜の大空襲では全町が焦土と化しいたましくも三百余名が焼死しました。
 ここで有志相図って一基の塔を建立し英霊幽魂の冥福と世界永遠の平和を祈念します。
昭和卅二年三月十三日 旧西六町会連合会
           西六連合会

裏面には設立有志の人名だと思われるのが彫られているが見えない。

 西六連合振興町会編の「西六いまむかし」によると、 
「昭和32年3月13日、旧新町南通3丁目の光禅寺境内に「西六平和塔」が建てられた。
 西六平和塔は単なる慰霊碑ではなく、悲惨な戦争を再び繰り返さないように、平和への固い誓いとして建てられたもので、後世に守り継がれることが、念願である。
 西六地区から出征し、戦死した数は定かではないが、この塔には240柱が鎮まっている。(戦死者名を別頁に記載)

 昭和20年3月13日夜の大阪大空襲で西六地区は一夜にしてほとんどが焼け野原になってしまった。道端や防空壕に焼死体が数多く散在していた光景は言葉に表わせない無残なものであった。非戦闘員を巻き込む戦争の恐ろしさ、悲惨さを痛感した。このような戦争を二度と繰り返してはならない。この空襲による罹災霊として123柱が鎮まっている。(空襲罹災霊名を別頁に記載)(だから、計363柱ということになる)

 当初この塔が建てられた光禅寺境内のものは、現在、西六福祉会館の北側にある塔より、もっと広く大きかった。そして塔の裏面に建立費用の出所と建立者代表の氏名が刻まれていた。

 「この西六平和塔は西六町会連合会の土地を処分し、昭和32年3月13日、、光禅寺境内に建立したものです。建立者代表、田渕清三郎、児島平八郎、山田庄助、松本萬次郎、山田五三郎、藤田正勝」
 昭和32年3月13日 西六平和塔建立式
 昭和37年9月   第17回忌慰霊祭
 昭和40年8月7日  第20回忌追悼慰霊祭
 昭和44年8月23日 第25回忌追悼慰霊祭
 西六平和塔の移転--光禅寺の境内にあって、塔はかなりの部分を占めていた。時が流れ、お寺自体の事情も変わり、寺側から移動の要請があった。西六連合会としては移転先に苦慮したが、会館建設委員会の協力を得て、移転敷地が確保され、西六福祉会館完成とともに移転が実現した。移転費用75万円は会館建設資金から支出された。
 西六平和塔の維持管理--地域住民の平和のシンボルとして、西六福祉会館理事会が維持管理を担当し、清掃、補修維持、祭祀行事などを受け持つことが決められている。

 この「西六いまむかし」によると、光禅寺から、直にここへ移されたことになる。理事会の方の話によると、この福祉会館が出来たのは、昭和54(1979)年との事だから、20年前にここに移されたことになる。また、塔の後ろから芳名簿が入れられるようになっているが、雨の心配などで芳名簿は会館で保管しているとのこと。また祀りは、毎年8月10~20日の間、近くで行なわれる納涼盆踊りにあわせてしているとの事である。光禅寺にあった頃の写真をみると、塔自身は同じだが、まえに幅広い石段が四段もあり、かなり大きく感じたものと思う。


案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

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