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九島院の「平和の鐘」

  

 驚くほど小さな鐘。高さは20cmぐらいだろうか。先代の住職がどこからか手に入れてこられたとのこと。
 広島県の呉沖で昭和18年(1943)6月8目、大爆発を起こして沈没した戦艦「陸奥」(むつ)が、27年後の昭和45年(1970)に引き上げられその一部から作られた鉄製の鐘である。
 鐘の表面には「戦艦陸奥遺材」「青少年文化研修道場」「世界大平和鐘」などの銘が入っている。

 この九島院は江戸時代は「摂津名所図絵」にも載るぐらいの有名な寺であったが6月1目(第2回大阪大空襲)でお堂が全焼、6月26日(第5回大阪大空襲)には山門前に爆弾落下して、表高塀や山門が全壊し、二度の大阪大空襲で寺院は完全に破壊された。その上、同年9月17目の台風高潮で1mの浸水。住職さんにしてみれば本当に平和を願ってこの鐘を手に入れたと思う、現在も平和を祈願してこの鐘を打ち鳴らして手を合わせる参拝者の姿がみられるとのことである。

 まず戦艦「陸奥」について。
 「陸奥」は大正7年(1920)横須賀で造られ始め大正10年(1923)に完成した。1年前にほとんど同じ規模の戦艦「長門」が造られた。昭和11年(1936)に大改装が行なわれた。改装後の大きさは 全長225m 最大幅35m 4万3400排水トン 主砲8本 副砲18本 高角砲8本 機銃20本などが備されていた。(ド迫力の戦艦ね…)しかし海戦には参加していない。有名なミッドウエー海戦の支援のために呉港をでたが途中で海戦が負けたという知らせで呉港にバックして来たこともあった。昭和18年(1943)4月に弾薬を搭載、6月8日12時10分大爆発が起こり船体が2つに折れて沈没。乗員1474名中わずか353名が救助されただけだった。爆発の原因は上官に強く叱られた水兵が自殺のために弾薬を爆発させたという説が今もある。そして前述のように昭和45年に引き上げられた。
 なお兄弟艦「長門」は昭和21年7月ビキニでアメリカの原爆の実験に使われ沈められた。

 次はこのお寺九島院について。
黄葉宗(禅宗)のお寺。寛文10年(1670)香西?ル雲と池山新兵衛が衢壤島(九条島)を開発し龍渓禅師を招いて創建した。
 この開山法要の時大亀が背に花を乗せてきたという。この頃大阪には亀が産卵に来たのではないだろうか。この龍渓禅師はすごい人で中国の僧の隠元の弟子となり宇治の万福寺の建立を助けた。後水尾上皇から「大宗正統禅師」の称号をもらった。
 この寺の開山法要のたった8日後の8月23日猛烈な台風高潮の時、龍渓禅師は座禅したまま動かず水死していったという。69歳であった。不思議にも、この周辺では犠牲者が少なく、人々は禅師が人柱に立たれたと噂したと言う。

甦龍の楠

境内の大楠の木は空襲で焼かれたものの甦った。最近碑が建てられた。碑には次のように書かれている。

 この大楠の木は昭和20年6月1日の大阪大空襲で劫火に一身を焼かれながらも甦ったもので、再び災害の無きよう祈願し、水定示寂された龍渓禅師のご遺徳に因み、甦龍の楠と命名し、空襲の痕跡を後世に伝え、再び戦争の惨禍が無きよう祈念する。

惟時 平成12年3月13日


案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

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