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安治川 川底トンネル



西区と此花区を結ぶ「安治川隧道」(ずいどう)

 安治川には大きな船が通るので橋がかけられなかった。一方この付近は、工場が多く、渡し船だけでは限度があるのでほぼ中間の「源兵衛渡し」の所に河底トンネルが造られることになった。
 工事は昭和10年(1935)12月から工事が始まったがはかどらなかった。やがて戦争がひどくなると軍需工場が多いので資材不足の時であったが輸送力の増強という至上命令で工事が急がれ昭和19年9月15日、9年もかかってやっと完成した。

 
  

 安治川の川幅はこの地点で77m車両用か歩行者用のエレベーターで17m降りる。80mの長さ、幅は車線と歩道併せて11mの地下道を通って対岸へいく。
 利用者のピークは昭和36年頃で1日1万3000人、車は4000台。しかし車の大型化や高速道路の開通により、昭和52年2月に車両用エレベーターが閉鎖され、現在は歩行者用エレベーターが動いている。1日6000人の利用者があるとのこと。

 そしてこの安治川トンネルにあわせて軍事物資を運ぶために「疎開」という名目で人家を立ち退かせてこのトンネルに続く大きな道路が造られた。これが「疎開道路」と呼ばれている道路である。この道路を通って阪神電車が地下に潜って難波に行く予定になっている。


案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

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