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内代公園 「祈平和」碑

 

 大阪市の読みにくい地名の一つで「うちんだい」と読む。内代小学校に面して内代公園がある。小さい子たちのための遊具があり、一角ではゲートボールしている姿が見られた。

 公園の北西には砂場があり、犬よけの柵がある。その横に「祈平和」碑が建てられている。

 都島区への空襲は1945(昭和20)年6月7日11時9分~12時28分(約1時間半)であった。米軍の記録によれば、この日の弾着点の一つが都島区高倉町であった。B29 409機が大阪を爆撃した。爆撃機の4分の3は焼夷弾、4分の1は2000ポンド爆弾(日本で言う1トン爆弾)と1000ポンド爆弾(同500キロ爆弾)を積んできた。爆弾は大阪砲兵工廠のコンクリートを破壊するためであった。米軍の報告書では「目標地点上空では視界をさえぎる雲が生じ、全爆撃はレーダーによって行われた。」とされている。砲兵工廠を破壊するための1トン爆弾が都島区・旭区・淀川河川敷などにばらまかれたのである。

 この辺りで犠牲となった60有余名の遺体をこの地で荼毘(だび)に付した(荼毘に付す=火葬にすること)。地域の人々がその後も供養(くよう)を続けられたが、33回忌の後、「祈平和」碑を建立された。その経過は碑文に記されている。

 昭和20年大東亜戦争も日に日に戦局不利となり再三にわたり本土上空に敵機の来襲を見るにいたりました。内代町も同年6月7日折からの大空襲に一瞬にして火の海となり降りそそぐ焼夷弾、機銃掃射によって老若男女、幼児に至る60有余名が悲惨な犠牲となられました。全部この地で荼毘に付され遺骨は雲観寺、一心寺へと納められましたが無縁の遺骨は散り散りに埋没、一時供養塔を建立供養を営みましたが公園整備で取り除かれ、その後49年2月霊の願に依り町内世話人相はかり同年6月供養塔を建て年ごとの法要を営み52年6月5日33回忌も無事回向、供養塔に変え世界の平和を祈り茲に碑を建立する

昭和53年6月吉日

 内代町世話人一同


案内人 柏木 功

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