空襲で廃校になった国民学校(都島区)
現都島区は、昭和18年4月1日「戦時に備えての地域、町会との緊密化、警察管轄区域の一体化をはかるのが主目的とされた」(都島区史)22区の一つとして発足した。当時の北区の都島・桜宮方面、当時の旭区の赤川、中宮、毛馬方面の合体であった。
旧北区都島地域では都島第1小学校(都島)、第2(中野)、第3(南都島)、第4(北都島)、第5(東都島)と番号制でスタートした。のちに小学校は国民学校と改称され、南都島国民学校、北都島国民学校などとなった。
学童疎開は昭和19年から開始され、都島区では9月18日の桜宮国民学校をスタートに順次石川県に集団疎開した。(東野田国民学校は高等科だけの学校であったため、集団疎開の対象になっていない)
1945(昭和20)年6月7日の空襲で都島区は戸数9割が被災するという壊滅的な破壊を受けた。都島校、南都島校、北都島校、東都島校、東野田校は全焼、桜宮校、中野校、高倉校は鉄筋校舎だけが燃え残るなどの被害を受けた。1948年に米軍機が撮影した航空写真(国土地理院刊行)では高倉小学校の運動場に1トン爆弾による穴が見える。
国民学校 | 1943年 昭和18年度 |
1944年 昭和19年度 |
1945年 昭和20年度 |
1946年 昭和21年度 |
||||||||
児童数 | 学級数 | 教員数 | 児童数 | 学級数 | 教員数 | 児童数 | 学級数 | 教員数 | 児童数 | 学級数 | 教員数 | |
桜宮 | 2,652 |
49 |
54 |
2,508 |
45 |
541 |
12 |
658
| 15 |
19 |
||
中野 | 1,845 |
33 |
35 |
1,743 |
33 |
35 |
236 |
6 |
290 |
8 |
8 |
|
都島 | 1,767 |
32 |
35 |
1,731 |
32 |
75 |
||||||
高倉 | 3,286 |
58 |
63 |
3,369 |
59 |
604 |
11 |
17 |
483 |
12 |
17 |
|
淀川 | 1,522 |
29 |
33 |
1,506 |
31 |
35 |
516 |
17 |
31 |
944 |
21 |
26 |
東都島 | 1,179 |
22 |
26 |
1,136 |
22 |
38 |
||||||
北都島 | 1,458 |
27 |
32 |
1,358 |
24 |
65 |
||||||
南都島 | 1,998 |
36 |
42 |
1,851 |
36 |
227 |
||||||
東野田 | 1,170 |
24 |
32 |
1,137 |
22 |
189 |
4 |
|||||
小計 |
16,877 |
310 |
352 |
16,330 |
304 |
2,491 |
2,375 |
昭和19、20年度は疎開並戦禍の拡大にともない正確な資料がない
出典:「都島区10年の歩み」昭和28年発行
戦後まもなくの地図
(休)の文字が休校を表している。
南都島国民学校
このモータープールを含む一角が南都島国民学校だった。向こうに焼け残った防火壁の玄関が見える。
「昭和20年6月7日空襲による足立潤次郎等 都島地区戦災者の霊を祀る 昭和48年6月吉日 施主 有志一同」
南側から見た防火壁 瓦の崩壊除けにネットが張ってある。焼けたあとや風化のあとが痛々しい。
旧都島中通5丁目 昭和3年3月創立、木造瓦葺2階建の尋常小学校であった。空襲当時、3年~6年までの児童398名と派遣訓導(先生のこと)16名が石川県河北郡の寺などに集団疎開していた。6月7日の空襲の時、「留守居役の男の先生が、校庭内の防空壕に待避、焼夷弾が中谷俊一先生に命中。殉職」されたという(「都島小学校創立100周年記念誌」)。防火壁だけ残して全焼。
今も鉄筋コンクリートの防火壁(玄関)だけが残っている。当時を伝える貴重な戦争遺跡としてぜひ保存してほしいと願う。そして、かつてここに南都島小学校があったという表示をしてほしいと願う。
現在の都島中通2丁目18番地全体が南都島国民学校の敷地だったと近所の人はいう。中心部はモータープールとなっているが北西隅に会館があり、この付近で戦災死された53名の方の慰霊塔が建てられている。
北都島国民学校
南半分は都島警察になっている
北半分は株式会社都島倉庫の敷地になっている。
あの木の下に奉安殿があったというから、このあたりが正門だったのだろうか。
旧都島北通2丁目
昭和3年4月創立、木造瓦葺2階建の尋常小学校であった。空襲当時、3年~6年までの児童297名と派遣訓導(先生のこと)10名が石川県金沢市の寺などに集団疎開していた。 6月7日の空襲で奉安殿だけを残して全焼。
現在の都島北通1丁目7番地全体が北都島国民学校の敷地だった。今は南半分は都島警察署、北半分は株式会社都島倉庫の敷地になっている。都島倉庫の中庭、楠の下に戦後半世紀以上、奉安殿が残っていたが、2001年夏に取り壊された。頑丈なコンクリートで土台も畳2枚分くらいのものが埋まっていたという。もちろんご真影や勅語はなかったそうだ。
ここもかつて学校があったという表示は何もない。西区ではマンションの一角に小学校跡の碑があるところもあった。警察署の一角に碑をたてることぐらいできないものだろうか。
東野田国民学校
旧東野田5丁目
6月7日の空襲で全焼。高等科だけの学校であった。昭和27年に4階建の新制中学校・桜宮中学校としてもとの位置に復興した。
戦争中にこんな先生もいたと教え子が証言している。
「小垣先生は、日ごろから、教練などすべきでないなどと話し、刑事につきまとわれていた。あの12月8日にも、小垣先生は、君らはこの戦争をどう思うのかと質問し、このままでは大阪は焼け野原になり、爆弾の穴だらけになってしまうぞと語った。まもなく小垣先生は学校に出てこなくなり、奥井校長から学ぶことになった。何でも特高警察に捕まったという話であった。」
(「続消えたわが母校」p218赤塚康雄 つげ書房新社)
参考にした資料
「都島区史」「都島区10年の歩み」「都島の今と昔を語る」「都島小学校創立100周年記念誌」「大阪市学童集団疎開地一覧(上)」「続消えたわが母校」(赤塚康雄 つげ書房新社)
案内人 柏木 功