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皇紀2600年 記念碑(都島区)


皇紀2600年記念 北区相生町(今は片町)


紀元2600年記念 都島青年団第□分団
(都島神社)


紀元2600年記念 都島本通8丁目町会

 1940(昭和15)年は、神武(じんむ)天皇の即位から2600年にあたるとされ、戦時下の国民の重苦しさから暗さをふきとばすために、2600年記念行事が盛大に行われた。
 2月11日の紀元節には天皇が詔書を出し「なんじ臣民(しんみん)、…国威の昂揚(こうよう)につとめ、祖宗の神霊にこたえんことを期すべし」というもので、戦争への協力をもっと熱心につとめよというものであった。
 この日、全国の神社では大祭が行われた。政府主催の記念式典が行われた11月10日から5日間、全国各地で旗行列・提灯行列・音楽行進・祝賀宴会が行われ花火が打ち上げられた。

 天孫降臨伝説の舞台である宮崎県では「八紘一宇」(はっこういちう)を刻んだ巨大な「八紘之基柱」(はっこうのもとはしら)がつくられ、宮崎市には神武天皇が東征に出発した土地だとして「皇軍発祥の地」の碑を建てた。

 「八紘一宇」の「八紘」とは、四方と四隅、つまり8方の非常に遠い果て、「一宇」とは一つの家のことで、「八紘一宇」とは世界を一つの家にするという意味である。神武天皇が橿原に都を定めた時の「八紘をおおいて宇(いえ)となさん」という言葉から出たとされる。「八紘一宇」は基本国策要項のスローガンとされた。

 各地の神社の境内や公園などには2600年記念碑や国旗掲揚塔を建てた。

 お祭り騒ぎが終わると政府や大政翼賛会は「祝いは終わった さあ働こう」と戦争への協力をよびかけた。

 今から2600年前というと、本当は日本は縄文時代であった。今の大阪市域は海の中に上町台地が浮かび、上町台地のすぐ西側、谷町線は海であった。四天王寺の西の愛染坂や清水坂は海岸の崖であった。上町台地の東側は生駒山の麓まで「河内湾」であった。「皇紀2600年」というのは国ぐるみの歴史のねつ造である。そのねつ造の上に、世界を天皇を統治者とする一つの家とするというスローガンが掲げられ、アジアへの侵略戦争に国民をかりだしていったのだった。

 参考にした資料 藤原 彰「日中全面戦争 昭和の歴史5」小学館


案内人 柏木 功

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