大阪港の戦争遺跡
大阪港は戦争をすすめるために兵士、兵器、弾薬、軍需物資を送り出し、受け入れる重要な場所であった。鉄道・駅・倉庫がならび、陸軍糧秣支廠や捕虜収容所もあった。大阪港(安治川を含む)では強制連行された朝鮮人・中国人も働かされていた。外洋船から艀(はしけ)に荷物をおろし、艀(はしけ)から倉庫に運ぶのが全て人間の労働によって行われていた。
中央突堤(築港桟橋)
中央突堤は今は横幅がひろくなったが、当時は文字通り海に突きだした桟橋であった。
住友倉庫・岸壁
築港の南側に住友倉庫の並んだ住友岸壁がある。太平洋戦争中にはこの倉庫の屋上に高射砲がおかれていた。
旧国鉄浪速駅
天王寺から大阪港まで線路が続いていた。西九条から新今宮までをつないで大阪環状線ができたのは戦後である。だから戦争当時は弁天町・大正・芦原橋という駅もそれをつなぐ線路もなかった。鉄道線路が旧国鉄浪速駅を通り住友桟橋の「大阪港」駅を通り、築港桟橋まで続いていた(下の地図参照)。上の旧浪速駅は「なみはや大橋」の上から撮ったもの。
天保山
日本一低い山として、最近は有名。国土地理院の地図に「山」としてのっている中で、一番低いそうだ。一等三角点のすぐそばに「天保山山岳会」の人たちが看板を出している。
天保年間に船の通行を確保するために川底をさらえた土を盛り上げてできた人工の山で、その後、削られたり、地盤沈下などで低くなった。現在海抜4.5m。
青年連合団碑
碑文には「明治元年三月 明治天皇大阪ニ行幸アラセラレ天保山ニ上リテ親シク軍艦ノ操練ヲ閲シ給フ 本邦海軍興隆…是ニ開ク」とあり、大正天皇銀婚記念に建立とある。天保山が日本海軍の創設に役割を果たした地であることが碑文からうかがえる。
大阪市青年聯合團之碑
大勲位戴仁親王殿下御題字
明治元年三月 明治天皇大阪ニ行幸アラセラレ天保山ニ上リテ親シク軍艦ノ操練ヲ閲シ給フ本邦海軍興隆ノ運實ニ是ニ開ク此地即チ王躅ヲ留メ給ヒシ所ナリ後年ソノ迹ノ湮滅セムコトヲ慮リ 大正天皇銀婚式記念トシテ建碑ノ議起リ昭和四年五月工ヲ起シ同十月ニ到リテ成ヲ告ク乃チソノ所由ヲ記シテ不朽ニ傳フト云爾
昭和四年十月
大阪市青年聯合團長 關 一 謹誌
陸軍糧秣廠大阪支廠
豚や鶏などがここで処理されて軍の食料として船に積み出された。今の築港地域の北東一帯にあたる。その家畜たちの慰霊碑として獣魂碑が天保山公園の一角にある。当時の陸軍糧秣支廠の構内に建てられた。
獣魂碑
獣魂碑
大阪陸軍糧秣支廠長 土 正雄 (花押)
昭和十七年七月建之
案内人 柏木 功