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空襲で消えた国民学校(港区)

 1945(昭和20)年の空襲で港区は壊滅した。1944年2月には22万877人いた港区の人口が、1945年11月には8672人に激減した。96%の減少率である(2位は浪速区の95%減)。学校の被害も大阪市でもっとも多い。

3月13・14日の空襲では

全焼 東市岡国民学校(旧市岡第3) 波除 市岡国民学校(旧市岡第1) 南寿国民学校 菊水国民学校(旧磯路高等小学校) 音羽国民学校(旧市岡第6) 東田中国民学校 魁国民学校(旧市岡第5)

半焼 南市岡 本市岡 磯路

6月1日の空襲では

全焼 吾妻国民学校 三先 田中国民学校 池島国民学校 錦国民学校 八幡屋 八幡屋北国民学校 石田国民学校 築港北国民学校 築港南国民学校

半焼 湊屋国民学校

 港区は空襲で全滅に近い被害をうけたため、本市岡校、磯路校、三先校の3校で授業を行い、その他の校は休校とされた。(本市岡校は1948年に市岡小と改称)

 1941(昭和16)年4月1日から国民学校令により、尋常小学校・高等小学校とも「国民学校」と呼ばれるようになった。戦後、1947(昭和22)年4月1日に学制改革が行われ63制の新制中学校がスタートした。

 その後、地域の復興にともない、小学校が増えてきた。
1950年 八幡屋小学校 再開
1952年 波除小学校 再開
1953年 田中小学校 菊水校が改称 
1953年 築港小学校 築港南校が名称変更して再開
1958年 南市岡小学校 再開
1961年 港晴小学校 新設
1970年 弁天小学校 新設
1975年 池島小学校 再開

下の図で赤いところにマウスをあわせると、空襲で消えた学校がわかります。
クリックすると、学校の説明へジャンプします。


 

 市岡国民学校(市岡第1尋常小学校)

  

 もと市岡第1尋常小学校といい国民学校とよばれるようになって市岡国民学校となった。今の弁天5丁目にあった。3月14日の空襲で全焼。校区も全焼し磯路小学校に統合された。記念碑が三社神社の境内に建てられている。

 本校は明治8年に創立され昭和20年の戦禍により焼失し廃校となった その跡地はここより北西約千米弁天埠頭の附近にあり市岡における小学校教育発祥の地である
 ここに往時の校章に因み桜樹を境内に奉納し市一桜と称して記念とした

 

東市岡国民学校(市岡第3尋常小学校)

 もと市岡第3尋常小学校といい国民学校とよばれるようになって東市岡国民学校となった。今の港高校の南西向かいにあった。3月14日の空襲で全焼し、磯路小学校に統合となり、そのまま廃校となった。

 

南寿国民学校

 今の市岡商業高校の正門と西側一帯にあたるところにあった。3月14日の空襲で全焼し、磯路小学校に統合となり、そのまま廃校となった。

 

菊水国民学校

 1939(昭和14)年磯路高等小学校として発足した。国民学校令にもとづき尋常小学校も高等小学校も同じ国民学校と呼ぶようになったため、磯路尋常小学校が磯路国民学校となり、磯路高等小学校は菊水国民学校となった。弁天4丁目の交差点の北西側にあった。今は倉庫が並ぶ。3月14日の空襲で全焼。東田中国民学校と統合、のち廃校に。

 

魁国民学校(市岡第5尋常小学校)

 もと市岡第5尋常小学校といい国民学校とよばれるようになって魁国民学校となった。今の市岡中学校の北側一角にあたるところにあった。校舎北東のたばこ屋さんで聞くと、塀のところに「市岡第5尋常小学校」の碑があったが拡張工事のあとなくなったという。3月14日の空襲で全焼。磯路小に統合され廃校となった。市岡中学校の北側沿いには「平和地蔵」がまつられている。

 

音羽国民学校(市岡第6尋常小学校)

 もと市岡第6尋常小学校といい国民学校とよばれるようになって音羽国民学校となった。今の磯路小学校の場所に音羽小学校があった。戦争当時の磯路小学校は今の区民センターのところにあった。3月14日の空襲で全焼し、磯路小学校に統合となり、そのまま廃校となった。

かつて磯路小学校は今の区民センターのところにあった

 

東田中国民学校

 今の石田公園のあたりがかつて東田中小学校であった。高等科のみの学校であった。3月14日の空襲で全焼。戦後正式に廃校となる。

 

吾妻国民学校

 弁天小学校の西角、港区サービスセンターなどのあるあたりに吾妻国民学校はあった。3月13日の空襲では無事だったが、6月1日の空襲で全焼した。休校ののち磯路小学校に統合、廃校となる。

 

石田国民学校

 石田2丁目、辰巳商会の倉庫あたりに石田国民学校はあった。6月1日の空襲で全焼。磯路小に統合され、廃校となる。

 

湊屋国民学校

 湊屋国民学校のあたりは、今は弁天埠頭の先の海の底になっている。6月1日の空襲で半焼。地域が全焼したため磯路小に統合され廃校となった。焼け残った校舎は新制「港第1中学校」(現 市岡中学校)が使用したり、磯路小分校となったり菊水校となったりしたが、安治川の内港化のため、1953年海面下に消えた。

 

錦国民学校

 田中町3丁目、体育館北側に錦国民学校があった。その一角に今は「八幡屋錦延命地蔵尊」がまつられている。6月1日の空襲で全焼。三先小学校に統合され廃校となる。

 

田中国民学校

 今のあさしお園ゆうなぎ園からあそか幼稚園のあたりに田中国民学校はあった。6月1日の空襲で全焼となり、磯路小学校に統合され廃校となる。

 

築港北国民学校

  

 天保山第2コーポのあたりが築港北国民学校の場所である。6月1日の空襲で全焼。三先小学校に統合され廃校となる。大正15年に校内に建てられた「懐徳」碑が今の築港小学校に移転され保存されている。
「懐徳 築港北尋常高等小学校創立記念 大正15年4月4日建之  保護者會 同窓會 母の會」

 

築港南国民学校

 現在の築港小学校が築港南国民学校の場所である。6月1日の空襲で全焼。三先小学校に統合され廃校となる。

 

八幡屋北国民学校

 市岡第4尋常小学校が国民学校令によって八幡屋北国民学校と改称した。安治川埠頭、宝船冷蔵の場所にあった。6月1日の空襲で全焼。三先小学校に統合され廃校となる。

 

池島国民学校

 

団地の向こうに見えるのは今の池島小学校

 現在の池島小学校の北側、住宅団地28、29号棟あたりに池島国民学校があった。6月1日の空襲で全焼、三先小学校に統合され廃校となる。

参考にした図書
・「消えたわが母校 なにわの学校物語」 赤塚康雄著、柘植書房
・「続 消えたわが母校 なにわの学校物語」 赤塚康雄著、つげ書房新社


案内人 柏木 功

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