大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

港区戦災死者有縁無縁精霊碑

   

 港区、弁天町の一角にこの碑がある。碑文には次のようにかかれている。

昭和二十年三月十三日及仝年六月一日の大空襲により郷土防衛の朋友二千五百有余の命を奪う 嗚呼再び繰返すまじき悲嘆を銘じ茲に有志相謀り英霊を弔う
 昭和三十四年六月建之

 港区は1945年3月13日深夜から14日の未明までの夜間空襲と6月1日の午前の空襲で焼くつくされた。

 3月13日夜23時57分から翌14日午前3時25分の間大阪上空に爆弾を落としたB29は274機。港区の市岡元町が照準点の一つだった。灯火管制で真っ暗な大阪上空から先導機が炸裂するナパーム弾を照準点に投下し、それを目印に後続機が焼夷集束弾を投下した。焼夷集束弾は空中で38発の小さな焼夷弾に分かれて火の雨となって降りそそいだ。この空襲で港区の主に東半分が焼き尽くされた。

 6月1日は午前9時28分から11時0分、458機が大阪を爆撃した。港区の市立運動場(現在の市立体育館)が照準点の一つだった。この空襲で港区は焼きつくされた。
 港区は壊滅した。

 3月14日の空襲で全焼した小学校(当時は「国民学校」と言っていた)は東市岡、波除、市岡、南寿、菊水、音羽、東田中、魁の8校。半焼は南市岡、本市岡、磯路の3校。6月1日の空襲で全焼したのは、吾妻、三先、田中、池島、錦、八幡屋、八幡屋北、石田、築港北、築港南の10校。半焼は湊屋の1校。全校が被害を受け、人口の急減もあり、18校が休校。戦後廃校となった学校の数は港区が一番多い。当時と同じ名前の学校でも、まったく別の場所に建てられたものも多い。


案内人 柏木 功

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