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沖縄県祖国復帰記念 時計塔

 此花区役所の一角に、大阪此花区沖縄県人会の名で「沖縄県祖国復帰記念」の時計塔が建てられている。

昭和四拾七年五月拾五日返還

時計塔建立要旨

太平洋戦争に於て、沖縄県民は、島ぐるみ戦場となり、十五万県民が犠牲となった。その上、二十七年間に亘り異民族支配の苦難を強いられた。
沖縄県民をはじめ、全国民の熱意により、一九七二年沖縄県の祖国復帰の宿願が達せられた。
この喜びと二度と戦争がなく、永久の平和を祈念して、此花沖縄県人会員と此花区民他有志一同によって、この時計塔が建立された。

 1945年3月1日、硫黄島の日本軍は全滅。アメリカ軍はいよいよ日本本土の1県である沖縄の島々に向かってきた。3月23日、艦載機による空襲と艦砲射撃がはじまった。26日慶良間諸島を占領、4月1日には沖縄本島西海岸に上陸、以後戦闘が続く。6月23日、沖縄の日本軍司令官自殺。9月7日、降伏調印式。沖縄での終戦は地域によって人によって異なる。住民の中には年末まで逃げ歩いた人もいた。「最期まで敢闘せよ」「投降するものはスパイとみなす」などの命令が悲劇を大きくした。

 沖縄戦は住民をまきこんだ唯一の国内戦である。長期にわたる激しい地上戦闘が行われた(「鉄の暴風」といわれる)。現地総動員戦であった。一般住民の戦闘参加を強要した。軍人以上の数の住民が戦死した。

 アメリカは沖縄を本土から分離し軍政による直接統治を行った。サンフランシスコ講和条約において、日本政府は沖縄・小笠原・奄美大島などを含む地域を放棄し、アメリカによる占領の続行を認めた。

日本国との平和条約

昭和27(1952)年4月28日 条約5号
昭和26(1951)年9月8日 サンフランシスコで署名
11月18日 国会承認、同日内閣批准
昭和27(1952)年4月28日午後10時30分 発効

第三条【信託統治】

 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦(そふ)岩の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

 以後、沖縄と日本本土との渡航にはパスポートが必要とされた。沖縄からの大学入学は「留学」扱いであった。沖縄と日本の心ある人々は4月28日を屈辱の日として「沖縄を返せ」という運動を展開した。特に沖縄県ではアメリカ軍の軍事占領による住民の土地とりあげ・生活破壊に対する島ぐるみの抵抗が続いた。ベトナム戦争の基地となったもとで、基地のない平和な沖縄への願いを「祖国復帰」に託して運動を続けた。

 碑にあるように1972年5月15日、沖縄県は祖国に復帰した。サンフランシスコ講和条約の規定をうち破った。

 しかし、依然として広大なアメリカ軍基地があり、それによる犯罪・事故はあとを絶たない。交通も生活も基地によってゆがめられている。(沖縄県の中のアメリカ軍基地の割合は、滋賀県の中の琵琶湖の割合よりも大きい)


案内人 柏木 功

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