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大阪中央郵便局

 1939(昭和14)年にできた大阪中央郵便局の建物。逓信省様式(郵政建築)のひな形を語るものといいます。柱と梁の構造がそのまま表現され、障子をイメージする窓、上階になるほど階の高さが狭くなるなどの形式です。

 外壁の色が防空上の理由と当時の大阪のスモッグを考慮して決定されたといいます。

(以上、近畿地方建設局大阪国道工事事務所編「御堂筋 遊歩UFO」を参照、引用しました)

 

 郵便局の民営化が目前ですが、徴兵の召集令状が「1銭5厘のハガキ」で送られたという誤解がありますので、ここで説明しておきます。

 たとえば2000年刊行の岩波現代文庫「一銭五厘たちの横丁」というルポがあります。この本は名もなき出征兵士たちの家族の写真をもとに訪ねて歩いた名著です。その表紙裏や案内広告に「一銭五厘のハガキに召集され、横丁の兄ちゃんたちが出征する」と。本文に確かにそう書いてはありますが…。

 

 城山三郎さんも次のように書いておられます。

「 そういえば私たちは、
『きさまらの、代わりは一銭五厘で、いくらでも来る』
と、幾度聞かされたであろうか。」(「指揮官たちの特攻-幸福は花びらのごとく」

 

 軍馬を扱うところでは「お馬さんは200円、兵隊は1銭5厘」などといわれ、人間より馬が大事にされたといいます。召集令状は入営する連隊司令部までの交通機関利用の証明書を兼ねていました。ハガキでなく兵事係から届けられた召集令状をもって入営した兵隊の中で「1銭5厘」といわれたのは、それが「たとえ」であり「冗談」であることが常識だったからでしょう。古参兵といえども末端の兵士が「召集令状」という言葉を公に口にすることがはばかられたかもしれません。

 

 兵隊の召集令状は実際は本籍地で役場の兵事係が配達しました。大阪に住んでいても本籍が鹿児島県なら、鹿児島県で召集されます。役場から配達に出発する時刻を記録するほど厳重でした。兵事係は「おめでとうございます」と言って届けました。受取人も第一に本人、本人が不在の場合は戸主などと順番が決められていて、兵事係は受け取った者の氏名捺印と時刻を記入した受け取りを持ち帰りました。子どもが留守番していた場合は、親に取りに来るように連絡するのみで紙は渡しません。

 今でも反戦を訴える街頭宣伝で使われている「赤紙」ですが、その左には、もともと「受け取り」がついていました。役場ではその受け取りだけを綴じて保管していました。

 臨時召集令状は赤い色の紙に印刷されていたので「赤紙」が召集令状の代名詞になっていますが、臨時召集令状以外の召集令状もあり、白紙もありました。赤色は陸軍と海軍では色が違い、陸軍でももっとうすい赤色でした。終わり頃はインク不足でさらに色が薄くなったといいます。

 召集令状がハガキだったら、破り捨てて「届いていません」といっても証拠がありません。簡単には徴兵から逃れられないしくみをつくりあげていました。郵便局は召集令状を配達していません。

 岩波書店編集部すらハガキで徴兵されたと思っていたのですから、誤解は広がっていますね。


案内人 柏木 功

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