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長柄橋の弾痕

   

 現在の長柄橋南詰めに慰霊観音像が建てられています。
観音像の手前に、旧(きゅう)ながら橋(ながらばし)の橋脚(きょうきゃく)が置かれています。「旧長柄橋弾痕」(だんこん)という銘板がはめられています。

大阪市立豊崎中学校 校庭に保存された弾痕

  

 長柄橋南西にある、大阪市立豊崎中学校の校庭(格技室前)に市民の運動によって保存された旧長柄橋の橋脚の弾痕が保存されています。

 「ナガラ」とは、梵語(サンスクリット語)で天皇の大都という意味とのこと。
 長柄の場所ははっきりしないが、現在の端のある付近から吹田の方にかけて行ったらしい。橋はいつ頃からかけられたのかはっきりしないが、推古21年という説もある。

 今の橋は、1907(明治40)年に淀川放水路(新淀川)の完成に伴い、新淀川に架かる最初の橋として、まず1909(明治42)年に建設されたのが元になっている。

 1945(昭和20)年6月7日の大空襲の時には爆撃からのがれるためおおぜいの人がこの橋の下に避難した。当時は大きなビルもなく、このような所に避難するしかしかたなかったのだろう。ところがこの橋に爆弾が落ち、下流側半幅が落橋。そこへ機銃掃射があり、約400人が死に、橋脚に弾痕が残ることになった。第3、第4橋脚によく残っていた。

 橋は1951(昭和26年)に大修理、1964(昭和39)年に途中からb字型のバイパスを継ぎ足す。やがてバスケットハンドル形式(どんなもんかは知らん)の新橋につくり直すことになった。

 この新橋の案が発表されるや、1981(昭和56)年9月に「旧長柄橋の空襲跡の保存を求める連絡会」が結成された。中心となったのは当時の大阪市教組北大阪支部長(現在の大阪市教 北大阪支部)の中井康司先生(故人)や当時の大阪市教組婦人部長(現在の大阪市教 女性部)の沢田好子先生らであった。「連絡会」は見学会を持ったり、精力的に署名活動を行って、大阪市土木局、近畿地建大阪事務所、大阪市会議長などに陳情を行ったりした。マスコミ各紙も記事としてとりあげた。「連絡会」は「少なくとも橋脚の現状保存の方途を講じた上に、弾痕の由来を記した説明板を立てること」を求めていた。しかし、市の土木局は「治水上、現地保存できない」とつっぱり、1m四方のコンクリート塊だけが「生き証人」として南詰め堤防上、慰霊の観音像のとなりに移し替えられた。また、一番近い豊崎中学校の校庭(格技室前)にも保存された。
 被爆50年の1995年8月、豊崎中学校に保存された橋脚に銘板がつけられた。


案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

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