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第4回平和のための城東区戦争展 記念講演 沖縄 原爆

戦時下の沖縄と戦後の沖縄

「壕から追い出され食料をとられ死ねと言われ」
沖縄は皇土(日本)ではなかった

 
真栄田義且さん(沖縄平和観光センター)

 「平和のための城東区戦争展」では、真栄田さん(沖縄平和観光センター)から『沖縄戦と基地オキナワ』をテーマにした講演がありました。本土と異なる歴史から始まって、沖縄戦の経過、戦後の沖縄の基地がどのように作られたのか、施政権返還から今日までの様々な問題点を語ってくださいました。沖縄戦における住民被害の凄まじさ、戦闘員を上回る住民の犠牲があったこと、「最下限沖縄は捨ててもいい」という「終戦工作」、戦後は、銃剣とブルドーザーによる土地の収奪や、基地を残して施政権だけを返還するという「沖縄返還協定」以後、変質・強化された安保条約の話など、今日の問題に深くつながる講演でした。
 真栄田さんは「沖縄の平和やくらしを守る問題は特別ではなく、みんなの問題です。いっしょに取り組むことが大切です」と締めくくられ、観光する際は、沖縄の地元資本の観光業者、地元資本のホテルなどを利用してください、とも。

「長いこと原爆のことを隠してお前もつらかったろう」

「語り部」に生きがいを感じています


大阪市原爆被害者の会 末広 千鶴子さん

 12月9目、「平和のための城東区戦争展」イベントの最後、大阪市原爆被害者の会の末広千鶴子さん(天王寺区在住)からお話をうかがいました。8月6日の朝、挺身隊としての作業中、大きな材木を抱えた瞬間に原爆が。同僚が倒れて動か.なかったこと、着ていた服が吹き飛ばされ、火傷と水ぶくれで酷い状態になったこと、周りの人々の哀れな姿やむついた人々が無惨にも死んでいく様子など、切々と語られました。その後、多くの苦労を重ねられましたが、いろいろな場面で出会われた人間の優しさや思いやり、そして、何よりも末広さんご自身がとても強く、明るい人であったことに感動を覚えました。
 昭和33年に厚生省の認定患者になられたのですが、ご主人には原爆のことは隠しておられたそうです。その時、ご主人は「長いこと原爆のことを隠してお前もつらかったろう」と言ってくださったそうです。
 結婚してアメリカにいる娘さん夫婦を広島の平和資料館にお連れしたときのこと、「この焼け野原をお母さんは歩いていたのね」「あの日のことを多くの人にもっと語ってあげてほしい」と励まされたそうです。「私が語らなくて、誰が語ってくれるのか」の思い、そして、「語り部」の仕事に生きがいを感じているという言葉に大きな拍手がおきました。今後もお元気で活動されることを心からお祈りしたいと思います。

娘さんから「すわって話してはだめよ。立って身振りもいれないと」と励まされたという末広さん。後ろには「日本国憲法前文」。


案内人 柏木 功

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