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戦後の関目学園(関目学園のあゆみ)

1.住宅施設関目寮の創設

1946年(昭和21年)8月1日、戦火、引揚者の住宅提供施設関目寮が開設された。恩賜財団同胞援護会大阪府支部(後に大阪福祉事業財団に改称)の経営であった。戦時中、日本陸軍が旧陸軍大阪造兵廠に隣接する城東区に、約10万坪の民有地を借り上げて材料置き場とした。


当時から残る唯一の建物

 その一角に当時西日本各地から集められた徴用工技術者のため、関目共同宿舎(家族寮と呼ばれた)3棟、付属設備などが立てられた。戦後この施設に戦災で家を失った徴用技術者と家族が残り、戦災援護会が管理したが、統合によって「同胞援護会」に引き継がれた。

 終戦直後の住宅需要は約6万戸と推定されたが、大阪府の住宅建設は戦後4年目で2万戸に達しなかった。

 軍復員者、海外引揚者が壕舎、バラック生活者など激増しつつあった。この厳しい住宅事情のもとで関目寮が誕生した。10,458坪の敷地に木造2階建て6棟、延べ2079坪、102室、定員200世帯の戦災引揚者の住宅提供施設である。1946年8月1日に「同胞援護会」はこの旧軍用施設を大阪府から無償で借り受け直営施設としたが、1947年7月1日には大阪府の委託経営事業となった。

<まぼろしの関目授産場>

 1946年(昭和21年)8月1日、同胞援護会大阪支部は株式会社開平社との間に関目授産場の委託契約をした。契約では、関目第3宿舎(家族寮)食堂、炊事場、浴場、敷地6000坪を開平社に貸与し、遺家族、戦災者、引揚者、生活困窮者の授産、共同作業所を開設させるというものだった。

 計画では、炊事場を授産場に、食堂を共同作業所に改造し、大工職50名、指物職80名、製図職20名を養成機関3か月宿舎に合宿させて技術を習得させ共同作業所で公共施設の修復、建具などの調製をさせ、「復興要員を養成し戦災復興に資することを目的」としていた。授産場の職員はすべて開平社の社員をもって委嘱された。この関目授産場は契約直後から暗礁にのりあげ、ついに実現しなかった。

2.社会事業活動の幕あけ

 社会事業施設団体として目面を一新した大阪同胞援護会のもとで、約1万坪の敷地にある関目寮は本格的な社会事業活動をはじめた。

 6つの宿舎はそれぞれ一心寮、二葉寮、三省寮、四恩寮、五常寮、六窓寮と名づけられた。1948年(昭和23年)8月一寮2階で診療室が開設された。また、国技館前で無料、低額の公衆浴場(翌年遠山湯に委託)を開設、当時関目駅まで入浴に行っていた地域の人に喜ばれた。

 9月1日、三寮で保育室を開設した。毎月10円でその中から3円を子どもの名前で貯金した。この「10円保育」は約5年続いた。10月4日には理髪室が設置された。

3.浮浪者保護施設の準備

<大阪軍政部の指示>

 終戦直後の政府発表で軍復員者396万人、工場失職者413万、第二次復員見込者515万、合計1324万人(昭和20年10月現在)の失業者があふれていた。これに家と仕事と身よりを失った戦災者が都会をめざして集まり、終戦2カ月で大阪駅前の浮浪者は3万人に達した。

  大阪軍政部は7月に浮浪者の一掃を命令した。そして、一時保護と鑑別の役割をもった梅田厚生館が開所した。しかし、在阪の社会事業施設は空襲で約半数が失われ、すでに収容能力は破綻していた。しかし、浮浪者は増えるばかり、生活保護法による施設の建設が、軍政部の強い指示で急がれていた。

<関目寮の改造工事>

 生活保護法による浮浪者収容施設関目学園の準備は、1948年1月から始まった。 7月に「浮浪者勤労宿泊所」の計画、9月に「男子浮浪者更生施設」の計画が大阪府に出されている。この構想は8000坪の敷地に2階建て6棟建坪のべ2000坪の関目寮全部を充てるという巨大なものであった。

 建物の窓ガラスに爆風よけの貼り紙が残り、周辺は広々とした麦畑が続き、旧資材置き場で米兵が監視に立っていた。ここで関目寮親交会と学園創立の話し合いが続いた。1948年1月関目寮改造の第一期工事が始まった。目の回るような改造計画が急ピッチで進められ、このなかで前述の社会事業活動が精力的に取り組まれた。こうして、関目学園が誕生した。


案内人 並川 一明さん(執筆当時 すみれ共同作業所)

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