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模擬原爆投下跡地 碑

  

2003年も追悼式が行われた。
子どもたちに語り伝えたいと口々に言われた。
道路の向こうのコンビニやマンションのあたりが「爆心」地

模擬原子爆弾投下跡地

1945年7月26日9時26分広島・長崎への原爆投下を想定してこの田辺の地に模擬原爆が投下され、村田繁太郎(当時55歳)他6名が死亡、多数の方が罹災しました。ここに犠牲者の冥福をお祈りし、戦争のない世界の実現と全人類の共存と繁栄を願い、碑を建立します。

 

2001年3月吉日
建立者
 大阪市中央区谷町6丁目9番18号
       株式会社 村田商会
       代表取締役 村田 保春(84歳)

追悼式当日に碑の横で行われたパネル展に次の説明が展示されていた。

「模擬原子爆弾投下跡地」の"碑"が出来るまで

 昨年(注 2000年)8月。「寄合酒」NO251の1・2ページをビラにして模擬原子爆弾投下地点(現・東住吉区田辺1・2丁目)周辺に3000枚配布しました。連絡先になっている田辺寄席世話人会事務局には「こんなことが本当にあったのですか?」という問い合わせと体験談を語る電話が相次ぎました。その中には、投下により犠牲になられた方のご遺族、村田保春さん(84歳)もおられました。村田さんは父親の死が模擬原子爆弾の投下であった事をこの時、初めて知られ愕然(がくぜん)とされましたそして「55年後の親孝行」と慰霊碑を建立することを決意されました。

 碑文は、何回も検討を重ねた上、決定し、2001年4月2日「模擬原子爆弾投下跡地の碑」の除幕式が行われました。地元町会長さんや碑建立に協力しあった多くの人たちが参集し、2度とこのような凄惨(せいさん)な戦争のない世界の実現を祈念しました。碑は東住吉区田辺1丁目6-7 地下鉄谷町線「田辺」駅南へ200mに建立されています。

 太平洋戦争終了直前の1945年7月26日午前9時26分、1機だけで淡路島北部から大阪に侵入してきたアメリカ軍のB29爆撃機は、大阪市東住吉区田辺小学校の北側に大型爆弾を投下し、大阪湾を南へぬけていった。ふつうは、淡路島北部から大阪へ集団で飛来し、そのまま東へ向かって熊野灘あたりから太平洋へぬけていくのに、まったく違っていた。

 たった1発の大型爆弾によって、死者7人、重軽傷者73人、倒れた家485戸、被災者1645人の被害が出た。当時の人々は、知る限りの大型爆弾ということで「1トン爆弾」が投下されたと話していた。

 この爆弾は、1トン(2000ポンド)どころかいわば「5トン爆弾」(1万ポンド)であり、しかも原子爆弾を投下するための模擬原子爆弾で、これを使って原爆投下の実地練習をしていたのであった。このことがわかったのは1991年のことだった。

 原爆投下訓練

 原子爆弾を落とすには、普通の爆弾と違って特別な訓練が必要であった。爆弾は飛行機から落とすと、飛行機の進む方向に落ちていく。高さ9000mから落とし、爆発までに50秒かかるとすると、そのまま飛行機が進むと、飛行機も原子爆弾の爆発で吹き飛ばされてしまう。そこで原子爆弾を落としたらすぐ、飛行機は右へ150度急反転して逃げていくことにした。アメリカ軍は原爆と同じ形・重さ・弾道特性の爆弾(模擬原爆)を使って練習をくり返した。アメリカ本土や南太平洋で練習をくり返した後、7月20日からは日本各地を使って実際に空襲し練習の総仕上げを行った。

 使用した爆弾は、長崎に投下された原子爆弾(プルトニウム爆弾)とまったく同じ形・重さ・弾道特性で、直径1.52m、長さ3.25m、重さ1万ポンド、カボチャのような形というのでパンプキン爆弾と呼ばれていた。2000ポンド爆弾を日本では1トン爆弾といっていたので、これは「5トン爆弾」と言える(正確には1万ポンドは4.5トン)。

 ワシントンでは次のような電報が交わされていた。

 「第509部隊は…日本に対する一連の空襲を始めた。その目的は搭乗員を目標地域と最後の任務遂行のための戦法に慣れさせ、又一方日本人に高い高度を飛ぶB29の小編隊を眺めることに慣れさせるためである。」

 509混成群団は7月下旬、日本本土に集中的に行動をおこしていた。部隊所属B29 15機のうち、毎回10機が、1機ずつ目的地にむかい、長崎型原爆と同じ形の模擬原爆「パンプキン」、TNT火薬のみの1万ポンド爆弾を投下していたのである。

 7月10日 10機10目標
   24日 10機10目標
   26日 10機10目標
   29日 8機8目標

   (白井久夫「幻の声 NHK広島8月6日」岩波新書 もとの資料は「春日井の戦争を記録する会」による)

 7月26日の田辺への爆撃はその1つであった。

 7月26日、第20航空軍の命令にもとづき特殊爆撃任務を与えられた第313爆撃航空団所属の第509混成群団の爆撃機B-29、7303号機は第一目標である富山の日本曹達会社をめざした。この場所は原爆投下目標都市「新潟」の所在を確認するためその周辺の精密爆撃目標として設定されていた。第2目視目標は京都・新潟・広島・小倉を除き、臨機の、任意の市街地目標の中心とされていた。つまり、どこでもよいから市街地に落とせということだ。富山市が雲に覆われていたので第2目標として大阪市街地を目視攻撃した。「結果は報告されなかったが、写真は爆弾がほぼ町の真ん中に命中したことを示した。照準点が不明のために、爆発点はプロットできなかった。結果は良好」とアメリカ軍の作戦任務報告書は書いている。(「米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎」(奥住喜重・工藤洋三・桂哲男/訳 東方出版1993年)アメリカ軍の「結果良好」は、大阪市民にとって凄惨(せいさん)な事態をひきおこした。

  「東住吉区史」によれば、この日のB29の進路は次のように記録されている。

「高知付近より進入せるB29一機は愛媛県東部、淡路島北部、大阪府を経て奈良県に入り、生駒東北部において反転して大阪市内に投弾の後、大阪湾を南進した。」
                                 (「東住吉区史」P508(東住吉区役所 昭和36年3月)

 大阪府を経て奈良県に入り、生駒東北部において反転したというのは、京都の所在を確認に行ったものだろうか。

 1機で来たというので「たいしたことないわ」と見ていた人もいた。たった一つの爆弾で大きな被害をだしたのは、「1トン爆弾」と思っていた当時の人々の思いと違って原爆の大きさに合わせた4.5トンもの大型の爆弾であったからだ。

 田辺に模擬原爆が投下された11日後に広島に、14日後に長崎に本物の原子爆弾が投下された。

「模擬原爆」とわかったのは1991年

 「模擬原爆」投下の事実は、愛知県春日井市の「春日井の戦争を記録する会」の人々が国立国会図書館で戦時中のアメリカ軍文書を調べて「発見」した。関西大学の小山仁示教授が「大阪市市街地」と記されていたその地点は東住吉区田辺であったことをつきとめ、そのことが報道されると被災者から情報が寄せられ爆心地や被災の状況が具体的に明らかになった。1993年大阪大空襲の体験を語る会が「原爆模擬爆弾の証言集」を出版、2001年には地域の人達が追悼式等を行い「田辺の模擬原爆証言集」を作成、お父さんを亡くされた村田さんが跡地近くに碑を建立された。

 「北田辺のまちづくりと歴史を考える会」が中心となって「7.26田辺模擬原爆追悼実行委員会」の人々は2002年にも追悼式・展示・集いを行うとともに「証言集」改訂版を発行されている。

【参考にした資料】

 「あれから57年 7.26田辺の模擬原爆証言集」2002年7月26日改訂版 (発行/7.26田辺模擬原爆追悼実行委員会 作成/北田辺のまちづくりと歴史を考える会

「京都に原爆を投下せよ」吉田守男 角川書店 1995年

「米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎」奥住喜重・工藤洋三・桂哲男/訳  東方出版 1993年

 

参考になるホームページ(外部リンク) 広島に落とされた原子爆弾について調べよう


案内人 柏木 功

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