大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

15年間の戦争があったころ-東成区の猪飼野と大成小学校-

 戦争が終わってもう60年以上になります。私たちが平和ということを考えるためには戦争のことを学ぶことはとっても大切です。

(1) はげしくなる戦争

 1931年に、日本は中国にせめいりました。それから15年間も中国と戦争をすることになりました。1941年にはアメリカやイギリスなどとも戦争を始めました。

 大成国民学校にかわる

 戦争をすすめるために学校の目的が変えられ、学校の名前も大成国民学校に変わりました。運動会では戦争ごっこも種目になりました。

 英語は使ってはいけない

 「英語は敵のアメリカの言葉だから、使ってはいけない。」ということになりました。たとえば野球をするときも「ストライク」や「ボール」などは「よし」や「だめ」と言いかえさせられました。

 

(空襲で焼けた大阪の地図。黄色は燃えた場所)

課題  空襲地図で、東成区はどこが焼けたかを調べましょう。

 金属の回収  1943年~45年

 戦争のために飛行機や大砲などをたくさんつくりました。そのために金属が必要ですが、だんだんと足りなくなったので町や家にある金ぞくでできた物が回収されました。金属でできたおもちゃ、お寺のつりがねや神社の金属製のこま犬なども集められて、大阪城の中にあった「大阪砲兵工廠」という兵器工場などに集められ大砲や玉、戦車などに変わりました。日本はそれらを中国や太平洋の国々で使い、たくさんの人々の命を奪いました。

 ひめこそ神社の宮司の本間さんから聞いたことですが、初め、神社のこま犬は金属で、台は石でできていました。でも戦争のために1943年に回収され、石のこま犬になりました。台は昭和5年(1930年)年、こま犬は昭和18年(1943年)年と書かれています。

 空襲のこわさ

 戦争がはげしくなり、アメリカの飛行機が空から昼も夜も爆弾を落としました。空襲といいます。大阪では1945年の3月ごろから激しくなりました。東成区は主に西側の地域が空襲にあいました。

(2) 学童疎開(集団疎開)

 1944年、日本への空襲が予想され、大きな都市を守るために足手まといになる者、大きくなったら兵隊になる子ども達をいなかに送り出すことになりました。親せきなどのところに行った子どももいましたが、家族と離れて多くの子どもは学校から集団でいなかのお寺や旅館などにあずけられました。そこで勉強もしました。

子ども達は奈良県へ集団疎開

 東成区と生野区の約9000人の子ども達は奈良県に、集団疎開しました。大成国民学校の5・6年生は1944年の9月から、3・4年生は12月から、奈良県の三輪村と織田村(どちらも今の桜井市)に行きました。1945年4月からは1・2年生も行きました。9人の先生に連れられて全体の3分の1ぐらいの209名の子ども達がいました。ほかに女の人9人と男の人9人が子ども達の世話をしてくれました。親が生活に必要なものを準備し、集団疎開にかかる毎月の費用、一人10円を出しました。お金がないために疎開に参加できない子どももいました。 (10円は今のお金になおすと5万円以上)

  
出発する子どもたち/おだまき旅館に宿泊したH・Tさんと子ども達

お寺や神社などにとまる

 子ども達は家族から離れて大神教会(三輪神社)の中の斉館、おだまき旅館、天理教織田分教会(木下教会)、慶田寺、慶運寺の5つに分かれて1年間以上、生活しました。織田国民学校や三輪国民学校の校舎をかりて勉強しました。

 しかし、三輪小学校や織田小学校や三輪神社では、なぜかしら1944年と45年の記録がなくなっているので詳しいことはわかりません。

 あなたならこんなに長い間、家族からはなれてくらせますか。

三輪村のおだまき旅館に泊まった5年生のH・T さん

 H・Tさんは、1944年9月、学校でおやつとしてきざら(砂糖のつぶ)をもらい、市電にゆられて天王寺駅まで行き、そこから関西本線(今の大和路線)の王寺駅でさらに乗りかえて三輪駅(今の桜井市)に着き、近くのおだまき旅館にはいりました。今も交流を続けている、Hさんという、朝鮮人の友達も参加しました。H・Tさんはお母さんがこいしくなり、夜中に逃げ帰ろうとしましたが桜井駅に行く途中で先生につかまったそうです。その後、天理教織田分教会(木下教会)に移りました。

 学童疎開の思い出は食べることに熱心だったこと、ほとんど勉強ができなかったことだそうです。おだまき旅館で寝とまりしながらそこで勉強もしました。飛行機の燃料のもとになる松の根っこを掘ったり、低学年の子どもの世話をしたりしました。服やふとんについたノミをいっしょうけんめいにとりました。そのおかげでノミとりが上手になったそうです。また、近くの大きなお寺の慶田寺のお墓で楽しいきもだめしもしました。

 戦争がいつ終わるかわからなかったけれど、早く終わってほしいと思ったそうです。1945年の5月にはアメリカ軍の飛行機から銃の攻撃を受けるこわい経験もしました。この年の8月15日の天皇の戦争に負けたという放送を聞いて「これで帰れる。」と思わず声を上げました。そして10月にやっと大阪に帰ってきました。その間にお父さんがなくなりました。

(2007年3月にインタビュー)


天理教織田分教会と会長の木下さん

 

慶雲寺にとまった3年生のT・Sさん

 T・Sさんも出発の時に、おやつとしてきざら(砂糖の粒)をもらってうれしかったそうです。

疎開先の慶雲寺では朝は6時に起き、そうじなどをしてからおかゆとたくわんの朝食でした。夕食はおかゆとするめでした。とてもおなかがすいたそうです。そのためにどんぐりやしいの実をとって食べたり、お母さんがはるばる汽車に乗ってふかしいもやいった大豆やはじき豆を持ってきてくれたのでそれを食べたりしていました。中にはあまりにもおなかがすきすぎて畑から大根をとってきて、そのまま食べたりした友達もいたそうです。時々は近くで育てている小さなコイやフナをもらって食べたり、正月には村の人にまねかれて、炊いたごはんやおいしいおかずを食べさせてもらったりしました。おやつに回転焼きがでました。

 お寺では住職のむすめさんや近くの村人が子どもたちの世話をしてくれました。また、今は奈良県史跡になっていますが、そのころは古墳(大昔の王様のはか)と知らずに、「ホケノ山古墳」の上に畑をたがやして野菜を作っていたそうです。織田国民学校には昼から通って勉強しました。

 その後、お母さんに連れられて大阪にもどってきた1945年の3月には空襲を経験され、夜の西の空が夕焼けのように真っ赤にもえ、千日前通りをたくさんの人が東に向かって逃げてくるのを見ました。4月には箕面の親せきの家に疎開し、8月に平和を迎えました。

(このような苦労を小さいときに体験されたT・Sさんは、人が困っているのを見て知らんふりをするのではなく、助け合う気持ちが大切だと考えるようになったそうです。70才をすぎた今でも毎朝、「はぐくみネット」の活動に参加して子どもたちの朝の登校を見守っておられます。2006年12月にインタビュー)

(3)15年間続いた戦争が終わる

 奈良県に学童疎開した子ども、親せきのところに疎開していた子ども、大成の地域に残っていた子どもが、学校にもどってきました。悲しいことに、学校の玄関は爆弾で吹きとんでこわれていたり、市電の今里車庫を守るために校舎の一部がとりこわされていたりしていました。また、戦争でお父さんや家族がなくなっていた子どももいました。

課題 学童疎開で、おうちの人と1年間、離ればなれになってくらしていた当時の子ども達はどんな気持ちだったでしょうか。想像しましょう。


案内人 小野賢一 (大阪歴史教育者協議会会員・元大成小学校教員)

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