大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

三光神社 片足の鳥居

 

三光神社の東側の鳥居 左側の石の一部だけが残っている。

 

 

↑社殿の前の鳥居 片足だけが上まで残っている    手前が戦前のもの↑

 

 

↑奉賛会の人々の心を記した碑    左柱は一部のみ残る↑

 

 長崎の被爆した「一本足の鳥居」はあまりにも有名ですが、三光神社にもあるのです。この鳥居については「街角の戦争発掘-福島明博写真集」(日本機関紙出版センター)が紹介しているだけでほとんど知られていません。

 三光神社は昔は姫山神社と呼ばれたらしい。私、佐藤ははじめてここを訪れた時には三光という名から日本軍の中国での「三光」作戦を連想して奇妙な名だと思った。特にその隣が陸軍墓地だからなおさらだった。

 ※三光作戦 (殺光、槍光、焼光 中国語で殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)中国大陸で日本軍がとったやりかた。

 この三光神社の由緒略歴書をみると、あまりに簡単すぎてわかりにくいが、由緒ある神社らしい。中風除けの神様、境内の桜は三光桜とよばれた、浪速七福神の一つであること、そして真田幸村の大阪城の抜け穴があるということ、相撲に関係あること、それ以外、古そうな鳥居や灯籠がある。

 この「一本足の鳥居」は、本殿前にある鳥居で、1945年(昭和20年)六月一日の大阪大空襲での付近一帯が全滅したときに、本殿などと共に爆撃にあい、現在の姿になったという。

 現在残っている鳥居には藤嶋、三保関、不知火、朝日山、押屋川など、どんな相撲取りか知らないが関取の名が読みとれる。鳥居の表面も江戸時代の作を思わせる。

 1959年(安政六年)、今の北区に野見宿祢神社(相撲の神社)がつくられ、それが今の南区の難波新地に移され、1886年(明治19年)、この三光神社に移されたとあるから、それらの移動と同時に移され、この神社の本殿鳥居になったのかもしれない。

 現在はこの神社の復興(氏子がほとんど全滅したので大変だったらしい)の第三期に、この「一本足の鳥居」のうしろにまったく同じ大きさで新しい鳥居がつくられた。

 大阪大空襲の重要な証人だと思う。大切に保存し、みんなに知って欲しいと思う。

東側の登り口の鳥居の前にも1945年6月の空襲で倒れた鳥居の石柱(左側)と台石(右側)がそのまま平和の願いをこめて残されてあります。
 「世界の平和と国家の安泰を祈願して残すこととする」とされた奉賛会の人々の心を受けとめたいと思います。

神社の一角には真田幸村の抜け穴といわれるものもあり、幸村公の像も建てられています。このあたりを真田山といいます。


案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

↑上へ