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赤紙で招集され、戦地に送り出された日本赤十字社の従軍看護婦


↑府庁のならびにある日本赤十字社大阪府支部

 赤十字社とは何だろうか。日本赤十字社大阪府支部のHPから要約して紹介する。

赤十字の創立者であるアンリー・デュナンは、
(1) 戦場の負傷者と病人は敵味方の差別なく救護すること
(2) そのための救護団体を平時から各国に組織すること
(3) この目的のために国際的な条約を締結しておくこと
の必要性を説き、1863年10月、ジュネーブで救護団体を各国に創設すること、その標章として「白地に赤十字」を用いることなど全文10か条から成る赤十字規約を採択しました。同会は、後にその名称を赤十字国際委員会(ICRC)とし、1880年以降は、正式に各国救護諸団体の名称に赤十字を使用することになりました。

 日本では、1877年の西南の役の際に、アンリー・デュナンと同様の考え方から、救護団体「博愛社」が発足されたことが赤十字の始まりです。そして、1886年、日本政府がジュネーブ条約に加盟、翌年博愛社から日本赤十字社に改称し、赤十字国際委員会の承認を得て、国際赤十字の仲間入りをしました。(イスラム圏では十字でなく新月を用いた赤新月社となっている)

日本赤十字社大阪支部ホームページ

 
↑大阪赤十字病院(天王寺区 近鉄上本町駅南西)

15年戦争 天皇命令、赤紙で従軍看護婦 戦地へ

 日本赤十字社の従軍看護婦は、天皇の命令として日本赤十字社令が発令され、陸海軍大臣の命令により戦地に召集された。兵士同様、赤紙一枚で招集され戦地に派遣された。家庭の条件などかえりみられることはなかった。政府の説明によれば、軍から給与を受けていた日本赤十字社の救護看護婦の数は2万4724人、戦地で死亡された方は1201人である。しかし、軍人同様の扱いで戦地にかりだされたにもかかわらず、恩給・保障などは全く差別をされている。

(例えば、1999(平成11)年3月12日 衆議院内閣委員会議事録参照 その後も衆参議員の女性議員中心に追及されている)

山奥を逃げ回った大阪班の悲劇

 フィリピンの陸軍病院に派遣された大阪班(比島第10612部隊派遣 第302救護班大阪班)のたどった経過はたいへんなものだった。生き残った人たちの手で記録集が編まれている。

「遙かなりプログ山 比島第10612部隊派遣 第302救護班大阪班」という本が、1981年にまとめられている。発行所等はなく、編集委員5名の方のお名前が記されているのみである。大阪市立図書館には、編集委員の一人の方から寄贈されたものが納められていた。この本の中に、当時の看護婦長が復員後にまとめた「昭和20年12月總報告書」が載せられている。この本をもとにその内容を紹介する。

 フィリピンのバギオ高地にある第74兵站(へいたん)病院に転属した看護婦は外科手術場、内外科病棟及び伝染病棟を担当していた。その後、南方第12陸軍病院に転属し、マニラ、ケソン第1分院に分散配属となった。第12陸軍病院バギオ転身時は第1戦部隊よりの戦傷患者多数で外科病棟のみを担当していた。食料の不足、はげしくくりかえされる爆撃、壕内勤務のため疲労困憊(こんぱい)、下痢・発熱が多数であった。

 「連日の空襲下にありて激増する患者の壕構築に自ら鍬、シャベルを取り、空襲の合間合間壕内患者の看護にあたり、早暁出勤、患者の退避完了日没後に至り、退避患者の運搬に加え沛然として到る豪雨頻回にして自ら前進雨水に浸されたる重症患者を背負いて壕内より半倒壊病室に搬出入、治療に創の処置に次いで壕内の排水に昼夜兼行、不眠不休各自激励し、あるいは傷病患者とともに涙を流し看護の任務を全うす。」

 「4月22日バギオ退去に伴い、最小限度の荷物糧秣を背に、独歩患者と共に径なき径の難行軍をなす。」と「總報告書」は書く。

 実際は、陸軍病院本体からおいてけぼりをされたようだ。もともと従軍看護婦は兵站病院など後方の病院勤務が建前で、戦火のとびちる野戦病院には勤務しないことになっていたはずだった。

「最初の到着地インチカクに於いては比較的安全性ある密林内に天幕を張り漸くに雨露を凌ぐ生活、食料獲得困難、日毎に加わるを詮術なく、パパイヤ、鬼椰子の根を採掘股は雑草を日々の食料とし、体力消耗極度に達せるも退避患者の診療業務に当たる等極度の窮状に耐え、以後転々患者と共に山岳の中に木の根、雑草、甘藷を探求、飢を凌ぐこと月余。薬品、衛生材料はもちろん食料に言語を絶する窮乏に喘ぎつつマラリア等の疾病と闘い、プログ山北方7キロ地点に玉砕を覚悟し困苦欠乏に耐え患者および同僚互いに激励し敢闘赤十字精神のもと使命達成に邁進せしものとす」

 そして以下の犠牲者をだした。終戦後にも体力が尽きて亡くなっていった人もいた。

救護看護婦  1945(昭和20)年1月30日 機銃掃射による戦死
救護使丁   1945(昭和20)年3月24日 爆撃による戦死
救護看護婦  1945(昭和20)年3月24日 爆弾直撃による戦死
救護看護婦  1945(昭和20)年7月1日 戦病死
救護看護婦長 1945(昭和20)年7月29日 栄養失調等による戦病死
救護看護婦  1945(昭和20)年7月29日 戦病死
救護看護婦  1945(昭和20)年8月5日 飢えと疲労によると思われる戦病死
救護看護婦  1945(昭和20)年9月21日 戦病死(終戦で下山途中)
救護看護婦  1945(昭和20)年9月21日 戦病死(終戦で下山途中)
救護看護婦  1945(昭和20)年9月21日 戦病死(終戦で下山途中)
救護看護婦  1945(昭和20)年11月20日 戦病死(帰国目前)

 生き残った人々に国は冷たかった。この報告書を書いた婦長さんは勤務期間がわずか足りないということで何の補償もなかったそうだ。戦地で人々に銃を向けた兵士には「恩給」があるというのに。

参考にした本 「遙かなりプログ山 比島第10612部隊派遣 第302救護班大阪班」1981年
       「大阪府の百年」小山仁示・芝村篤樹 山川出版社 1991年


案内人 柏木 功

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