大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

解体されるところだった愛珠(あいしゅ)幼稚園

 淀屋橋の南東に堂々とした木造建築の愛珠(あいしゅ)幼稚園がある。大阪市で最も古い幼稚園1880(明治13)年創立で、今も残る園舎は1901(明治34)年に建てられたもので大阪市指定有形文化財第1号である。

 1945(昭和20)年3月末、愛珠幼稚園の東西にある会社から愛珠幼稚園園舎の撤去願いが大阪市長に出された。東側の日商と西側の三菱信託である。いずれも軍のための仕事をしているので、隣に木造の幼稚園があっては、空襲の時に幼稚園が燃えて被害が会社におよぶことになるというのである。3月13・14日の大空襲の後のことであった。
 東側の日商は軍需省(ぐんじゅしょう)重要工場の指定を受け、陸海軍の命を受けた事業をしていること、西側の三菱信託は三菱化成、倉敷工業、倉敷航空等の軍需(ぐんじゅ)会社が社屋に入っていることを理由にした。
 その結果、6月25日に園舎の疎開を言いわたされた。

 愛珠幼稚園は戦時下とはいえ重要な教育建築物として意識されていただけに、それは関係者をおどろかせた。園長は、「倉庫、北園舎、たたみ部屋は保存できると信じ」「取り除き時期もなるべく遅く願って了解してもらった」と記録している。戦時下にあっても、園舎存続のためにねばりにねばっている姿がわかる。戦争という非常時の中にあって、園舎への愛情と重要建築物という認識がなければできなかった行動であるといえよう。

 7月1日から学徒動員で愛日小学校へ荷物の引っ越しがはじめられた。園舎解体は8月4日に決まった。しかし、連日の空襲で作業は遅れ、8月15日の敗戦を迎えた。

 当時の園長が「取り除き時期もなるべく遅く」と努力したことによって空襲による延期と重なり解体をまぬかれることになったのである。幼稚園舎としては日本最古の建築物がこうして保存され、築後100年をこえる今も実際に保育の場所として使われている。

[参考にした資料] 赤塚康雄「大阪市における太平洋戦争末期の校園舎疎開について」(天理大学学報第172輯H5抜刷)


案内人 柏木 功

↑上へ