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皇紀2600年 記念碑(中央区)
「仁愛忠孝」碑


(難波千日前公園)

 大阪府から優良社会教育団体として表彰を受けた記念として「青年に課せられたる使命こそまことに重大なり ここに心身錬成修徳の指標としてこれを建つ」とする。「昭和十六年三月吉日 大阪市浪速区河原青年団」

 このあたり「河原町」は明治に西成郡難波村から南区に編入、大正十四年浪速区に、昭和十八年南区に、現在は中央区。地名も消えて探すのに苦労した。

「小楠公義戦之跡」碑

 天満橋、松坂屋の北西、川岸にこの碑がある。大阪市東区教育会が「紀元2600年記念」に建てた。
 楠正成(くすのき まさしげ=大楠公)の子、楠木正行(くすのき まさつら=小楠公)は正平2年、渡辺橋の戦いで川に落ちて流された敵を救い、衣食を与え薬を給し京へ帰らせた。
 これぞ忠孝、勇気と仁愛、 日本精神の化身であるというわけで、その渡辺橋が今の天満橋あたりということで碑をここに建てたようだ。

 楠正成(大楠公)は、天皇のために足利尊氏と闘って摂津の国・湊川で戦死。楠木正行(小楠公)はその後、四条畷で戦死。いずれも最後は兄弟差し違えて死んだという。天皇のために死んだ楠親子の話はくりかえし教材に使われた。 

 1940(昭和15)年は、神武(じんむ)天皇の即位から2600年にあたるとされ、戦時下の国民の重苦しさから暗さをふきとばすために、2600年記念行事が盛大に行われた。
 2月11日の紀元節には天皇が詔書を出し「なんじ臣民(しんみん)、…国威の昂揚(こうよう)につとめ、祖宗の神霊にこたえんことを期すべし」というもので、戦争への協力をもっと熱心につとめよというものであった。
 この日、全国の神社では大祭が行われた。政府主催の記念式典が行われた11月10日から5日間、全国各地で旗行列・提灯行列・音楽行進・祝賀宴会が行われ花火が打ち上げられた。

 天孫降臨伝説の舞台である宮崎県では「八紘一宇」(はっこういちう)を刻んだ巨大な「八紘之基柱」(はっこうのもとはしら)がつくられ、宮崎市には神武天皇が東征に出発した土地だとして「皇軍発祥の地」の碑を建てた。

 「八紘一宇」の「八紘」とは、四方と四隅、つまり8方の非常に遠い果て、「一宇」とは一つの家のことで、「八紘一宇」とは世界を一つの家にするという意味である。神武天皇が橿原に都を定めた時の「八紘をおおいて宇(いえ)となさん」という言葉から出たとされる。「八紘一宇」は基本国策要項のスローガンとされた。

 各地の神社の境内や公園などには2600年記念碑や国旗掲揚塔を建てた。


案内人 柏木 功

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