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サイパンへ

横田 志保子(執筆当時 今津小学校教員)

父「南洋群島方面にて戦死」という通知のみ
調べてもらったらサイパン島だった

 昭和19年に父が戦死した時、「南洋群島方面にて戦死」という通知のみだったが、その後、敗戦の混乱で生活に追われ、母も、父の両親も、父の死に場所を調査するすべもなく、父の両親は他界してしまった。

 45たったある日、戦死の死に場所を調査してあげるという人が現れ、母が頼んだところ、父の部隊はサイパンで果てたことがわかった。その調査書は以下のようなものだった。

(調査書)
永島勉
  住所 松江市(以下略)
  電話 略
  生地 八束郡(以下略)
  年令 大正三年三月生
  叙勲 八等白色桐葉章海軍機関兵長

軍歴

 昭和一八年一月 大竹海兵団に教育召集
         海軍機関兵として教育訓練

 昭和一八年四月 同教育終了
         即日呉海兵団に応召入団
         江田島海軍兵学校に配属
         自動車運転手拝命 軍務に精励

 昭和一九年四月 南方派遣 横須賀出港 サイパン島上陸
         海軍第五特別根拠地隊司令部に配属
         同島防衛任務に従事

 昭和一九年六月 米軍サイパン島上陸(十五日)
         我軍守備隊と死斗を展開

 昭和一九年七月 サイパン島にて玉砕戦死(十九日)
         行年 三十一才。

 

 八束郡意東村(略)、 永島重助氏リキさんの長男に出生。意東尋常高等小学校より青年学校を卒業、神戸川崎造船株式会社に奉職、戦況の激化により川崎造船より呉海軍工廠に出向、電気関係の技術者として軍需産業に精励を重ねる。

 

 昭和十八年一月、大竹海兵団に教育召集、三ケ月間に亘る教育訓練をうけ、同年四月教育終了するも戦況は日増しに激化、即日呉海兵団に応召入団、江田島海軍兵学校に配属、自動車運転手として軍務に精励を重ねる。十九年四月、米軍侵攻が予測される南洋群島サイパン島に派遣、横須賀にて夫人久美さんと最後の面会を終えサイパン島に出撃をなす。同島上陸、海軍第五特別根拠地隊司令部に配属、同島防衛任務につく。十九年六月十一日、米機二〇〇機が突然サイパン島を爆撃、次いで六月十三日より沖合に終結せる米機動部隊より猛烈なる艦砲射撃が開始される。六月十五日早朝より米軍は大軍を擁してサイパン島に上陸開始、絶対国防圏死守のため全部隊は徹底抗戦、一ケ月余に渡り凄絶なる死斗が展開される。我軍は死力を尽して奮戦を重ねるも補給は途絶え、七月四日ガラパン地区にて海軍部隊は全滅、残存兵力は洞窟に立てこもり最後の一兵迄抗戦を続ける。七月五日第五特別根拠地隊司令官辻村少将が自刃、七月十九日「我一死を以ッテ太平洋の防波堤ナラン」の電文を最後に全員壮絶なる戦死をとげ三十一才の生涯を閉じた。

 

母とともにサイパンへ

 今、海外で誘拐されても、大きな事件として報道されるが、太平洋戦争で死んだ人の多くはどこで死んだか、その死に場所すら家族に知らされずにいた。しかし、軍当局は知っていたにもかかわらず、軍事機密の名のもとに知らさないでおかれたもので、戦後50年たってもその調査は個人まかせということで、従軍慰安婦の問題と同じく、都合の悪いことはほっておくという当局のやり口には怒りかこみあげてくる。海外の戦地では今もその人骨は野ざらしのままだという。父の骨もサイパンの野山の土に埋もれ風雨にさらされているやもしれない。母も73歳という高齢であり、一度サイパンを見て死にたいということで、今春、サイパン旅行をすることになった。

 以下はその感想です。

 3月26日夜8時20分、大阪空港を後にし、3時間余りでサイパン空港に到着。意外な速さにびっくり。父は海軍であったので、5日間位船上生活をして到着ということになるそうだ。さて、私たちは真っ暗なサイパン空港に到着。通路の白い柔らかそうな石塀がエキゾチックで、南国についた感じをただよわせている。すぐホテルに着いて6時間程寝て、朝、ホテルのすぐ前の海辺へ出ると、明け方の風雨が止んだ所で、広い広い、長い長い水平線の真ん中に虹がかかっているではありませんか。

「しまった!カメラを部屋に忘れてきた。でも、取りに行くと消えてしまうかもしれない。」 まるで、私たち親子の来島を父が歓迎してくれたのかとつい思ってしまい、その美しさに感じ入って、白い砂の浜辺にしばらく立ちすくんでいた。

 母の希望で、和食の朝食をホテルですますと、いよいよ戦跡めぐりだ。私たちのバスガイドは、これも運命的なものを感じてしまうが、もと日本軍に日本の教科書をならい、招集され、日本軍に入って闘った現地人(チョモラ人)の70歳になるおじいさんガイドで、日本語もうまく、軍歌や「恋しふる里、なつかし父母」等と日本の歌を交えながら、鹿児島弁の戦友や東北弁の戦友もいたと語ってくれ、激しい戦場となったガラパン地区、日本軍が降伏して民間人が身投げした海岸や崖を、かけ足であったが目の前にし、母は感無量のようだった。米軍が上陸して1ヶ月あまりの激戦で4万人程が死亡し、昭和19年7月7日、サイパン島日本軍の陥落。父の死亡日は19日、日本軍全滅の日だ。戦跡地には各県の慰霊塔、韓国の慰霊塔等が立ち並び、この地に散った人の多さを物語るが、訪れる人のほとんどは観光客であり、手を合わせる人は私たちの他は無いようだ。

 珊瑚礁に囲まれた美しい海岸、青い海と白い砂。この地で48年前に激戦があったとはとうてい見えない平和な島のたたずまいではあるが、日本軍の見るからにチャチな戦車や大砲が記念に残され、確かにこの地で高いがあった跡をとどめている。父が逃げ廻った山中に入ってみないと本当の戦跡地とはいえないかもしれないが、観光用戦跡めぐりではそれものぞめないのでまたのチャンス到来を祈ろう。

「平和日本 大切です。大事に守ってください。」

 さて、この地は明治時代より日本人はこの島に来て生活をしていた人が多かったと聞いて驚きだったが、現在も、経済的には日本人の島となっている。11あるホテルのうち日航とか近畿ツーリスト、清水建設というように10こまで日本企業経営の大ホテルがあり、その他大小のリゾートホテル、別荘等ほとんど日本のもので、この島は日本観光客リゾート利用で経済がなりたっているようで、ガイドのおじいさんが言うには、
「日本様々です。金持ち日本でいいですね。それ以上にいいことは平和日本です。「君が代」は今の日本の子どもは知らないでしょう。私は子どもの頃、日本人学校でしたから「君が代」歌えます」
と歌ってくれました。(今の日本の現状を思って複雑な心境)

おじいさんの言葉は続く。
「平和日本大切です。大事に守ってください。湾岸戦争でこの島からも戦争に参加して2人死にました。日本誰も死んでいないでしょう。いいことです。平和日本すばらしい。この島悲惨なこといっぱいありました。悲しいこと言えません。私は運良く生き残りました。戦争は悲しいです」
とガイドしてくれた。今は観光でしか成り立っていないので、島の人もそれにたよりきって肥えた土地があるのに、農作業は誰もしないということで、平和でないと観光もなりたたず、おじいさんの言う「平和」も説得力がある。企業主は日本人で、ホテルのメイド・ボーイはフィリピンの出稼ぎ、現地人はみやげ売りや運転手をして生計をたてているとのこと。これでいいのかなと疑問を感じつつ、日本企業の経済侵略ぶりをまざまざと感じたサイパン旅行だった。

 しかし、現地人の生活ぶりは、私の同情をよそに、ボロ車でそまつな服を身につけてはいるが、一家そろって広い浜辺に車を止め、バーベキューを囲みのんびり食べ、泳いで週末をすごしている。その姿を見て、この島の人々は幸せだと確信しました。花見客でごったがえす日本のバーベキューを囲む様子と違って200メートルおきに、家族がポツンポツンといった風でした。

 女ばかりの旅で山へ入るのは危険なので、本当の戦跡地には入れなかったので残念でしたが、戦死後48年ぶりに、父の果てた地に立つことができ、感慨深いサイパン旅行でした。

城北支部女性部「戦争体験文集」第5集所収 1992年発行(中見出しは編集部)

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