大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

墓 参

柳河瀬 弘子(執筆当時 みどり小学校教員)

 私は、昭和7年7月29日、香川県綾歌郡坂本村で生まれました。

 私より7歳上の兄は、旧制中学4年から、1年東京で勉強したあと、軍属として中国に渡りました。姉・私の2人が母を助けて田んぼの仕事をしました。しかし、この姉も昭和19年には、学徒動員令で、女学校の勉強なかばで伊丹の航空会社へ行ってしまいました。

 私は小学校5・6年の頃から、こえたごを引きずるようにかついだり、夏休みともなれば、家族みんなの布団の洗濯やつくろいものをひと手に引きうけて、しました。家事を手伝い、仕事をすることが遊びでもあった少女時代でした。

 坂出高等女学校1年の8月15日は、終戦です。カンカンとした太陽の照りつける正午、雑音であまりよくわかりませんでしたが、終戦の詔勅を聞いたのでした。

 9月、中国などからの復員が始まりますと、ニュースの時間は、田んぼにいても、誰かが家に残り兄の部隊の帰還をまちました。

 兄の戦病死の知らせが入ったのは、昭和21年の寒い時期でした。兄は、終戦後、中国南部から、中国中部へ移動している途中で赤痢になり、後黄疸になって病死したと、兄の部隊長がガリ版ずりの手紙に、名前、死亡日時、病名だけを入れて知らせてよこしました。 ひとりの死が一片のガリ版ずりのザラ紙によって知らされるという悲惨さ、これが戦争というものです。父は何回かこの部隊長という人を訪ねていきましたが、ついに会うことが出来ませんでした。

 兄の召集令状が家に届いたのは、昭和19年2月頃でした。それまで20歳だった徴兵検査が18歳に切り下げられたのです。

 入隊まで1週間しかなかったのですが、軍属として従軍していた中国大原より現地入隊を断り、交通事情の悪い中を何万キロも汽車と船を乗りついで家族との別れに帰ってきたのでした。入隊したらおそらく生きてかえれないことを察知していたのでしょうか。家に1日滞在して善通寺師団に入営していきました。

 兄弟として生を受けながら、兄と共に暮らした記憶は、私にはほとんどありません。軍刀を腰につったこの時の兄の姿のみが私の記憶をかすめます。

 私は、今年も夏、帰郷した折りに私の部落で亡くなった兵士達の墓を訪れました。兄の墓には「中支にと死亡 享年19歳」と彫りこまれています。34歳、20歳、23歳、22歳、27歳、24歳、私はそこに並ぶ「英霊」たちの年齢に、あらためて戦争のむごさを思うのです。

 私の息子よりも8歳若く死んでいった兄。天皇陛下のためと教育され、うたがいをはさむ年齢までも生きられなかった兄。それも終戦後に死んでいった兄の無念さがひしひしとわたしにつたわってきます。

 御影石の墓石を洗いまわりに生えた雑草の1本1本を抜きながら、あの時の泣きくずれた母の姿がよみがえり、胸がしめつけられるのでした。2度とおこしてはならない戦争。日教組の不滅のスローガンをどうしても守り抜かねばなりません。

 子どもの頃とは変わり果てたふるさとの道をふみしめ、ふみしめ、55歳の私は、又、決意をあらたにするのでした。

「戦争を知らない婦人に贈る 第2集 今、語っておきたい私の体験と平和への願い」
城北支部婦人部/1987年発行/所収

(編集部注 文集作成当時は、私たちも日教組の組合員でした。1989年、私たちは『教え子を再び戦場に送るな』のスローガンを守るために全教(全日本教職員組合)を結成しました。)

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