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私の戦争体験-非人道的な原爆-

上野祐司さん(都島区在住)

 第2次世界大戦が終了した1945(昭和20)年8月、私は満7歳だった。国民学校(小学校)2年生で、両親と別れ祖母と妹と共に戦火を逃れて広島市の北方、亀山村(現広島市安佐北区可部町)の農家の離れで疎開生活を送っていた。

 広島で原爆が炸裂した8月6日午前8時15分、その時私は亀山国民学校の教室にいた。教室の南側が校庭で、そのニキロ余り先に大きな山がそびえていた。その山の向こうから激しい閃光が飛んできた。その時教室にいた誰もが、何が起こったのかわからなかった。

 そして、15分ほど後、「ドカーン」という大きな爆発音が響き渡り、教室は騒然となった。

さらに、一時間くらい経ってから、「落下傘(パラシュート)が飛んできた」という声で、みんなで校庭に出て行った。見上げると、真上に白い落下傘が浮いていて、黒いものがぶら下がっているのが見えた。「アメリカ兵に違いない」と先生の引率で学校の裏山に逃れ、山の中の小川に足を濡らし、突然降りだしたにわか雨にぬれながら夕方まで隠れていた。後で聞いた話しでは、落下傘にぶら下がっていたのは、炸裂した原爆の効果を観測する米軍の通信筒だったそうだ。夕方、1時間あまり歩いて同じ村の柳瀬という疎開先に帰った。

 その後、広島市内から20キロも離れた可部町や亀山村にも原爆の犠牲者が大八車に乗せられて運ばれてきて、遺体が大田川の堤防などで焼かれた。

 私の家族は両親、2人の兄、3人の姉、それに妹と祖母の十人家族だった。わが家は広島市内の石見屋町(現中区幟町)にあって、私も1937(昭和12)年9月そこで生まれ、1944(昭和19)年8月まで両親たちと住んでいた。

 原爆が投下された時には、両親と一番上の姉は石見屋町の自宅にいた。二番目の姉は広島市の東はずれの府中町にある工場に、そして高等女学校(現中学校)1年生の三番目の姉は同じ学校の679人の生徒、教職員たちと、爆心地近くで建物を疎開させる作業をするために動員されていた。長兄は学生で千葉県へ、次兄は国民学校4年生で、私の疎開先よりさらに北方の加計という所に集団疎開で行っていた。

 原爆が炸裂した時、両親と姉は建物の中にいた。爆心地から1キロあまりの所だったが、廻りの建物がほとんど倒壊したのに、幸いに自宅は倒壊をまぬがれた。そのために火傷することなく、その時は難を逃れた。しかし、その日の内に建物は火災によって焼失した。姉は「お姉ちゃん、体が熱いよ」と駆け込んできた隣家の大火傷を負った子の手を引いて郊外に逃れた。

 しかし、途中でその子が息を引き取った。その子は私の遊び友達で、疎開していなかったら私もその子と同じ運命になっただろう。

 建物疎開に動員された5歳上の姉は、同級生たちと一緒に一瞬にして全滅した。両親と姉、急きょ広島に戻ってきた長兄は、姉の手掛りを求めて廃櫨の中を捜し歩いたが、遺体はもちろん、何一つ遺品になるものを見つけることはできなかった。

 原爆の非人道的な惨禍は幼い私にも大きな衝撃を受けた。

 私は、戦後小学校4年生の2学期から広島に戻り、中学・高校生活を送った。その間、広島市内の破壊された町が復興する姿や原爆で体に傷を負った人たちも見てきた。もう二度とこのような惨劇を起こしてはならない、なぜ、広島や長崎にこのような残酷な原爆が投下されたのだろうか、と思いつつ成長した。

 私はこのことを原点に戦争反対、平和を守る途一筋を生涯のテーマとしている。

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