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都島の空襲 昭和20年(1945)6月7日

竹中三子さん(都島区在住)

 当時私は北区(現在都島区)善源寺 町に住んでいました。小学校(当時は国民学校)1年生でした、学童疎開を強いられていて、集団疎開か縁故疎開のどちらかを選択させられ、私は縁故疎開で父方の親戚にあたる「三重県尾鷲」に預けられていましたがハシカに罹り毎晩高熱にうなされ村に医者が居ないので、隣村から御医者を迎えなければならす、親戚の人が心配になり母に電報を打って都島へ帰されてしまいました。

 父は徴用で1942年(昭和17年)に取られ母と二人の留守宅だったのです。

 当日(6月7日)朝、母は都島工業高校の食堂で働いていましたので仕事に出かけましたが、いつも留守番をしている私はその日は何故か留守番がいやで母に何度も追い返されても後からついて行ったのです。食堂の人も「しょうがないなあ」と言いながら「仕事の邪魔にならんようにそっちの方であそびや」といってくれました。同じようについてきた子がもう一人いました。

 昼頃になって急に「空襲警報発令」がサイレンと共にけたたましく叫ばれてきました、 母と仕事をしていた人達が家に非常用の大切なものを取りに帰るといって帰りかけたので私ともう一人の子が泣き叫んで母達を止めました。母が引き返して校門へ入りかけた頃飛行機の爆音がゴーと鳴り響いてきました、慌てて地下へ降りた途端バラバラと音がして窓ガラスが割れ、火が入ってきました、火が傍まで近づいてきて学校の先生や食堂のおじさん達が防火バケツの水を運んでくださって「みんな水をかぶれ!」と言われ、それぞれ水をかぶり、母は私に前掛けを濡らして頭からかぶらせでくれ、大人達は火を懸命に消して下さったのです。そして避難場所も探してくださったのですが、何処も火と熱とで近寄れないので、その場でじっとしている他ありません。みんな「南無阿弥陀仏」と唱えはじめました。子ども心にもこれで死んでしまうのかと思いあまりの恐怖で熱さも泣く事さえも忘れてしまっていました。

1945年6月7日、都島工業高校に落とされた焼夷弾は1094発。本館1・2階・地下、機械科本館は残ったが、設備の大半は焼失した。

 1時間位過ぎた頃だったでしょうか、火も鎮まりゴーという音もしなくなりました。やつと空襲が終わったのです。

 食堂の人達が母達と「ご飯のおこげ」でおにぎりを握って皆に食べさせてくださいました。

 後片付けを終えて皆が帰ろうと、地下の食堂から一階へ上がり外へ出て驚きました空は真っ赤で夕焼けのようで、あたり一面焼け野原になっていたのです。校門のところで皆が呆然と立ちすくんでしまいました。何処の家も焼け落ちで黒く焼け焦げた電線がだらり、とぶら下がっているのがすごく不気味に感じました。

 そこへ警防団か消防団の人が「焼け出された人は皆淀川小学校へ行くように」と知らせに回っていましたので皆で堤防をつたって歩いて行ったのですが大人達は放心状態で無言のまま歩きつづけ、そして淀川小学校へ着いたのです。淀川小学校は無事だったのですが窓ガラスはほとんど割れていました。講堂へみんなあつまってカンパンを一袋もらって一晩を過ごしました。

 翌朝四条畷に居た祖母が私たちを心配して迎えにきてくれました、そして母と私を四条畷へっれていってくれました。四条畷のお百姓さんのお家で間借りをさせて貰い、そこでも空襲警報が二度ほどかかり、みんなで山へ一斉に避難をするのです、一度私一人で少し離れた所まで遊びに行って警報がかかったのもしらず帰り道に急に低空飛行してきた艦載機?に出遭い、パイロットの顔がはっきりと見えたのに驚いて慌てて近くの家に逃げ込んだのをはっきりと記憶しています。 よく撃たれずに済んだと後から大人達に言われました。

 また、一家族が近くの家に疎開してこられ私と同い年の子どもが広島の話をしてくれました。広島では真っ黒に焦げた人や目玉が飛び出した人や焼けただれた人が居たと言ってくれましたが、私はその時は本当の事とは思えませんでした。後になってそれが特殊爆弾だと聞かされたのです。

 そして何日か経って8月15日終戦の日がやってきました。大人達が皆集まってラジオの前で泣いているのです、母に何で泣いているのかと聞いたら戦争が終わったのだと聞かされ思わず「ワーよかったぁ」「もう逃げんでもええねんやなあ」と叫んでしまいました、その時大人達は一斉に私を見て睨みっけたのです、母は慌てて私を制止に来ました。私は何故叱られたのか理解ができませんでしたが、大人達は戦争に負けた悔しさと戦死をした人達のこと等で喜べなかったのだと母に聞かされ複雑さを覚えました。

 戦争が終わって私たちは祖母と一緒に東淀川区の親戚を頼って空き家を探してもらってそこで住む事になりました。

 翌年21年2月頃、昭和17年に徴用でインドネシアのハルマヘラ島へ召集されていた父が復員してきました。あちらこちらで戦死公報を聞く中で父も駄目かなあと思っていた矢先のことでした、夢のような気がしました。父の話では和歌山県の田辺港へ着きすぐに実家の三重県尾鷲へ無事を知らせ大阪の空襲を聞かされ急いで都島へ帰ったが焼け跡を見て驚きもう私達は死んでしまったのかと思った、すぐに母方の親戚東淀川の淡路へ行き私たちが無事だったことが分かったそうです、南方も食べるものが無く蛇やトカゲやねずみ、など食べられるものは何でも食べないと生きて帰れなかったそうです。皆栄養失調で倒れていったそうです。無事で帰れたのですが現地からマラリアに罹ってしまい高熱に苦しむ毎日でした。

 それから約1年後、昭和23年私は小学校3年生で都島へ帰れる様になりました。都島はまだ焼け野原で学校も少なく桜宮小学校は生徒が一杯で入れなくて断られ、高倉小学校へ編入になりました。当時高倉小学校には運動場の「南西の端」に大きな池がありドッジボールをするたびにボールが池にはまり先生と男子生徒が長い竹の棒で取っておられたことや食用蛙が繁殖していたことを覚えています。その池は通称「爆弾池」といっていました。その後昭和23年頃池を埋めることになり、不発弾は撤去されたのかどうかは生徒には知らされなかった様に思いますが、私達高学年の生徒は埋め戻しの土運びを父兄と一緒に手伝った記憶があります。

 心無い一部の人間が戦争を起こした為に多くの国民が犠牲になりその傷跡が60年過ぎた今でも消えることはありません。生き残った私達が後世に伝えてゆかなければならないと強く感じております。(2005年夏 記)

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