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戦争と私

高杉 昭次(執筆当時 茨田中学校)

 校門をくぐるとすぐ右手に奉安殿があった。私たち国民学校の児童は登校した時と下校する時に、奉安殿に向かって最敬礼をすることになっていた。そして、それはごく自然なことであった。

 私は山口県の片田舎、阿月(あつき)国民学校に通っていた。2年生の時に戦争が始まった。田舎ではあるが隣村に部隊という工兵隊があり、西の山を一つ越えると田名海軍潜水学校(人間魚雷の訓練地)があった。だから敵の攻撃目標の一つであったろうかと思う。

 2年生の習字の時間であった。顔に墨で鼻ひげを書いて、「東郷元帥やー」とはやしたてた。その罰として校庭を膝あるきさせられた。先生はこういってしかった。「軍神である東郷元帥の名を汚した、恥をかかせた、申し訳ないことをしたと謝れ」

 校歌の2番にあたる歌詞は次のような文句であった。
「教育勅語のみ教えは我れ等の進む羅針盤。親和団結、文に武に 誠の徳を磨かなん。」
これは当時の教頭先生の作詞だと聞いた。

 もちろん、私たちに軍国主義教育は誤っているなどという意識は毛頭あるはずもなく、それどころか私のあこがれは広島にある陸軍幼年学校に入学することであった。

 6年生になったときである。担任の竹本先生は級長を決めるにあたって次のように宣言した。
「神武天皇から今上天皇まで124代の天皇の名前を一番早く覚えた者が級長になる。」と。私たちは必死で覚えた。結局、この時は私が一番早く覚えた。私は初めて級長になった。今でも最初の30代くらいまではすらすらと言える。

 村にラジオがあったのはバス停前の藤山という家くらいのものであったろう。ラジオを聞きに行くのはその家であった。新聞がどのくらいの家で読まれていたかわからない。が戦況は学校の先生のことば、工兵隊の動き、空襲警報の回数などで子ども心にもつかめていたように思う。
 学校でどんなことをならったかはつまびらかでないが、音楽の時間に習った「軍犬利根」の歌、国語の教科書に出てくる「君が代少年」は今でも思い出す。おそらく、ものすごく感動して歌い、あるいは読んだのであろう。

 5年生の頃になると、戦況の悪化、物資の不足、空襲警報の頻発などで学校の授業は減っていた。苗代につく害虫駆除は小学生の仕事になった。食糧増産のために暗渠排水という田んぼの改修がされていたがこれに使われるぼう大な量の松の小枝運びも小学生の仕事になった。そのほか夏の夜は夜光虫とりである。夜光虫を干して加工し潜水艦の計器に塗るということであった。満天の星の下、腐りかけの魚に糸をつけ、海に投げ込む。たちまちにしておもしろい程夜光虫は集まってくる。彼岸花の球根採りもやった田んぼの畦には鮮やかにさく彼岸花がたくさんあった。これを掘り起こし球根をとった。これは軍人の非常食を作るためだと聞かされていた。すすきの穂採りもやった。よく枯れたすすきの穂は水に浮く。この性質を利用して海軍の救命具をつくるということであった。

ある日、みんなとすすきの穂刈りに行った。競争するようにしてすすき刈りをやる。その時、みいやん(1年下)という男の子の鎌が私の手の甲に当たった。そしてみごと人差し指のつけ根を切った。骨が見える。血がでる。ヨモギの葉を摘んで止血に使った。医者は村にいなかった。自然に治すより他に方法はなかった。今でも冬になると左手の人差し指はしびれる。その度に当時のことを思い出す。みいやんをそのことで責めたことは一度もないことが、私の今の誇りにも似た心境である。

 女の子はいつも千人針をやらされていた。「橋のたもとに街角に、並木の道に停車場に、千人針を運ぶ針、心をこめて運ぶ針」とこの歌詞は都会的で、街角とか並木の道とか当時の私には何のことかさっぱりわからなかったが、妙に哀愁のこもった歌であった。千人針は慰問袋に入れられて戦地へ送られた。

 大人や青年で元気なものは軍隊か徴用に出ていた。私の一番上の兄は神戸の高射砲隊にいた。2番目の兄は光海軍工廠に徴用されていた。お国のためなら仕方がないと祖母はよく言っていた。祖母は3反5畝の田んぼを自力で耕していた。おかげてひもじいおもいをしたことはなかった。
 村に残った動ける大人は松根油(しょうこんゆ)作りをやっていた。松の根っこ(たいまつ)を切り取って蒸し焼きにして油をしぼり出すのである。これはゼロ戦の燃料に使われたそうだが、あんな油で飛べたであろうか。

 光海軍工廠に行っている兄は10日か20日に一度くらいの割で帰省していた。帰ってくるとメチャメチャ食べて下痢ばかりしていた。ある日、工廠から電報が来て家族の出頭を命じられた。姉と私はすぐ光へ行った。汽車で1時間ほどのところである。聞くと兄は寮で他人の食べ物を盗んだので警察に連行されたというのである。私たちはすぐ警察に行った。しかし、警察は面会を許さなかった。私たちはしかたなく警察を出て一面焼け野原になった一角でしょんぼりと持ってきたにぎりめしを食べた。昭和19年の暑い夏の日であった。

 八部隊の動きも日を追って激しくなった。空襲の被害をより少なくするために上陸用舟艇の分散が始まった。私の家の近くにも舟艇が1艘(そう)分散された。それとともに兵士がやってきた。若い少年兵-今から思うと-がほとんどであった。軍人も腹が減ってたまらないらしい。近くの芋畑やラッキョウ畑も荒らされた。誰も文句を言わずにがまんした。夜になると家にきて食べ物をねだった。その中の少年兵がこっそりと母に頼んだ。郷里は栃木だが家から食べ物を送ってくるから預かってほしいとのことであった。祖母は承諾したのであろう。何回も荷物が届いた。中身は大部分が餅であったように思う。少年兵は夜こっそりと来てはうまそうに食べていた。もちろん、これが部隊に知れると営倉(えいそう)行きとなる。私たちも罰せられる。私たちは外部に漏らすようなことは決してしなかった。敗戦後、復員した彼から礼状が来た。

 6年を卒業する昭和20年は空襲警報の連続であった。しかし、直接の攻撃を受けたことはなかった。ただ、1日に何回も防空壕に入らなければならなかった。-映画「ムッチャンの詩」に出てくる防空壕に何とよく似ていたことか。-金持ちや士族と呼ばれる幾人かの人は自家製の防空壕を作っていた。

 私たちの村は学童疎開を受け入れる側にあった。親類縁者を頼って幾十人かの子どもが疎開してきた。その中に難波という2兄弟がいてすぐ隣に住んだ。その弟の方はとても愉快な子どもであった。当時は流行歌といわれる歌を口ずさむだけで非国民とされていた。ところがこの難波弟はそれを平気で破った。東京から疎開してきたのでことば使いもずいぶん違っていた。小学1年か2年であったろう。「私はカフェーに咲いている真白き花のすずらんよ。」私は彼の行動がとてもうらやましかった。総じて疎開してきた子ども達の方が阿月の子ども達よりも明るかった。半農半漁の村であったので戦時中も食糧がなんとか工面できていたのでそのせいかもしれない。すぐに仲良くなれたし、かわいい女の子がたくさんいた。

 20年4月、中学校に入学した。幼年学校をめざしていた。中学校の授業はそのほとんどが軍事教練と援農と運動場の開墾であった。2年生以上は学徒動員でいなかった。木刀をよく振ったし、竹槍の突き方も習った。手旗信号やモールス信号は実際に使えるようになった。
 中学校では朝礼の時、東に向かされて東方遙拝を必ずやらされ、「我等は陛下の赤子(せきし)なり」と言わされた。大声をださないと神田という教官(予科練から来ていた)になぐられた。

 敗戦直前の1、2ヶ月というものはB29よりもグラマンという艦載機が瀬戸内を飛び回り、低空飛行で無差別に機銃掃射をするのがこわかった。生命の恐怖を感じた。国防色の色など何の役にもたたなかった。空からは電波障害のためのスズ箔がきらきらと輝きながら落ちてきた。

 敗戦を初めて知ったのは八部隊の軍人からであった。彼らの会話の中に「12ゲンカク」というのことばがでてきたのでわかった。「12ゲンカク」というのは手旗信号の送り終わりを示す動作である。手旗をもった腕を真上に上げる。これは終わりを示す合図である。兵隊は、負けたとは決して言わなかった。

 戦争は終わった。それが実感としてわかるのは空襲警報がならなくなったこともあるが、八部隊から毎日毎日煙の柱が上がるようになってからますますその実感がわいてきた。部隊内にある軍服、背嚢(はいのう)、軍靴、食糧などを燃やす煙である。-後に闇(やみ)物資と呼ばれる品物はこれをこっそり盗み出すことから始まる-。

 戦争終結は確かに敗戦であった。私たちの地方にはニュージーランド兵が進駐してきた。進駐軍はみんな一様にベレー帽をかぶっていたそしていつも口を動かしていた。ガムを食べているのである。日本の軍人の姿とは似もつかなかった。彼らには力とゆとりがあった。ガムをくれた。100数10段もある赤崎神社の急な階段を難なくジープで登り、降りてきた。これには驚いた。進駐軍はよく学校にもやってきた。教科書の墨塗りのためである。彼らの何人かは通訳と呼ばれる若い女性を連れていた。羽振りがよかった。ただ彼女たちは陰ではパンパンといわれていた。

 海外からの引き上げも始まった。私の一番上の兄は朝鮮にいた。主人が警察官で朝鮮へ派遣され駐屯していた。姉は戦争中に病死していた。子どもは一人でヒナ子という名であった。警察官は軍人と同じように収容所に入れられた。一人残されたヒナちゃんは知り合いの人にに連れられて帰国してきた。栄養失調で見るも無惨な姿であった。何とも異様であった。姉の子どもとはとうてい思えなかった。5歳くらいの少女であったろうか。祖母は重湯を飲ませていた。ある日、ヒナちゃんはカニコロ(生いもを切って干したもの)を盗んで食べた。それが原因で死んだ。祖国へ帰りついてから10幾日目であったろうか。命日は3月5日である。

「戦争を知らない婦人に贈る 第3集 今、語っておきたい私の体験と平和への願い」
城北支部婦人部/1988年発行/所収

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