大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

蘇 生

島本幸昭(元瑞光中学校教員)

 わが家で最も古くて新しい柱時計は、夏も終わるころ、40年振りに戻って来た。すんでのところで、粗大ごみとして永久にこの世から姿を消すところであったのを。

 今年の七月の末、広島で合同供養が催されたその席上、故人縁の献歌の中の一曲に「古時計」と言うのが奉納されたが、それを私が伴奏している最中に、ふとこの時計のことが脳裏を寄切ったのである。

 昭和二〇年の春、両親が広島の郊外に疎開させた家財道具の中にあったこの時計は、私が幼いころから家で一日の時を告げ、時折父がねじを巻いていた。時刻の読み方を教わったのもその時計だった。 両親が八月六日に逝ってから、この時計を携えて親戚を廻り、収容所、里子を経て、果ては農家の作男染みた生活を余儀なくされた。他の家財道具は次々生活費に替えたが、この時計は最後まで伴侶の様に残っていた。

 やがてそこの老農夫から、その時計を是非にと請われ、折しも控た大学受験の費用に止むなく替えてしまった。最早、往時を偲ぶ縁は一葉の家族写真のみになっていた。昭和二八年のことであった。

 もう恐らく作動はしてはいまいが、それなら形だけでも残っては居まいかと一るの望みを託し、受話器を取り上げた。受話器の向こうでは当時のおカミさんが古い時計が二つ蔵の隅の方に転がっているが、その時計かどうかは判らないと言う。しかも、息子が粗大ごみとして処分する矢先だと聞けば居ても立ってもおれなくなり、すぐに行くからと頼んでおいて祈る思いで車を駆った。

 玄関先で挨拶するのももどかしく、早速時計の在るところに案内して貰う。古時計が二つ枕を並べるように横たわって居たが、まごうかたなく求める時計がそこにあった。一瞬、驚きと喜びが入り交じった衝撃が体中を貫く。この種の感動は、かつて経験したことがないものだ。探し求める肉親に会えたときの感動と同じものと言えようか。目頭が潤み、しばし声にならず、愛しさの余り両手で撫でるのがやっとである。色は剥げ、あちこち傷み、飾りも欠け落ち見る影も無かったが、どうして見間違う筈があろう。戦後を共にして来た相棒のそれである。

 引き取らせて貰ってもち帰り、掃除をして磨き、何とか動かないものかと分解し、油を差す。一念が通じたのか、その時、奇跡的にも秒を刻み時を告げた。その音の何と美しく温かく聞こえたことか。昔のままの響きで。

 献歌の中に思い起こし、自ら探し、自らの手で繕す事の出来た幸運を今、甦った時計の音の流れの中に静かに、熱くかみ締めて居る。時計は振り子を左右に分かちながら、私に過去の移り変わりを刻み、語りかけるように思えてならない。いつまでもこのぜんまいがまき続けられ語ることが出来ることをねがう。

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