大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

私の戦争体験

大塚寿夫(川西市)

大阪大空襲  8回

 3月13日 23時57分 ~14日 3時25分。 B29爆撃機274機襲来。焼夷弾1,733トン投下。
 浪速区・西区・南区・港区・大正区・東区・西成区・天王寺区の136,169戸、501,578人被災、
  3,987人死亡、8,500人重傷者、678人行方不明。
 大阪への空襲は、3月13日、6月1日・7日・15日・26日、77月10日・20日、8月14日。の8回。
 344,240戸、1,224,533人被災、12,620人死亡、31,088人重傷者、2,173人不明者

1945年8月15日、終戦の日

 母の実家、姫路市飾磨郡八幡村蒲田(現在広畑区蒲田)で小学校1年生の夏休み、暑い日差しの正午、天皇陛下の声がラジオから聞こえてきた。大人は神妙な態度でラジオに向かっていた。何を言ったのかわからなかったが、ともかく戦争が終わった事だけが伝わってきた。訳わからずうれしかったのを覚えている。終戦の日でした。

 私は1939年1月28日、大阪市天王寺区北日東町43番地にて出生。

 日東小学校の近く、そこで、1945年3月の大阪大空襲の日まで過ごしました。

 敵機襲来、サイレンが鳴り家の地下に防空壕が掘られていて、丁度家族が入れる広さである。当時家族は祖母と、(祖父は私の覚えていない頃、若くして他界、)両親と父の妹と4人暮らし、前栽のある大きな屋敷でした。防空壕に入ってじっと身動きもせず、すると空からブーーンと飛行機の音、次にドーン、ドーンと高射砲の音、やがて静かになり、空襲警報解除の知らせが聞こえる。外に出て見渡しても何も変化がない。そんな日が続いた。夜になると、当時は傘が付いてる裸電球をぶら下げていましたが、その傘の上から黒い布をかぶせて、明かりが外に漏れないようにしていた、明かりが外に漏れていると、見回りの人に怒られるのである。敵機にわかると攻撃されるからである。ある日、父は荷車に家財道具を積み込み、1人で家財道具、母が嫁入りに持ってきたもの(これは戦後聞かされた)を母の実家、姫路へ疎開させていた。雪の寒い日、荷車を引き疲れて道路に倒れていた時もあったようです。空襲を予期していたのか、

 嫁入り道具を無くしてはいけないと思い実家に送ったのである。

大阪大空襲の日、3月13日

 夕方である、何時頃か覚えていない。敵機襲来!防空壕に逃げ込んだ、じっとしていた、

 ゴーと編隊を組んだ飛行機の音である。今までとは違う、中に居てはだめだ外に出ようと言うことで外に、空を見上げると、なんときれい空一面に花火のようだ、焼夷弾が降ってきているのだ。道頓堀の空が真っ赤になっている。燃えている。そちらの方から沢山の人が荷物を担いで、荷車に荷物を積んで逃げてくる。すごい、身体は怖さで震えていた。早く逃げよう、祖母、母、叔母、と4人で逃げ出した。すると、近くで、非国民と言われている。何のことかわからないが、そんなに早く逃げたらいかんと言われている。しかし、逃げた。松坂屋、百貨店である。母がここで電話交換手をしていた。もう満員

 なんとか1階の隅に潜り込めた。百貨店の中で一晩中、焼夷弾が落ちた、消火作業に男の人は来てくださいと叫ぶ声がひっきりなしに、やっと一夜が明けた。百貨店のシャッターが開いた。まぶしかった。おどろいた。シャッターの外に布団や毛布をかぶって沢山の人、外は・・・・・・建物はなく遠くまで見通せる。焼け野原、そこには沢山の焼けこげた人・人・人。みんな小さい子どもみたい。電線に髪の毛が巻き付き、風に吹かれている。なま暖かい風。焼けこげた市電(路面電車)の中にも焼けこげた人が・・・何とも言えない光景。50年以上経過してもはっきり覚えている。住んでいた所に帰り、おにぎりを食べた。この時の味も忘れられない。あんなにおいしいおにぎりは食べたことがない。焼け野原で食べていると、行列が出来るほど人が来て、子どもに食べさせてほしい・・・と

後で聞いたのだが、この時のご飯は、逃げるときにたまたまお釜にお米とお水を入れたまま逃げたのである。帰ってみると丁度うまいこと炊けていたと言うのである。おにぎりの味がまだ思い出される。それから大阪駅まで歩き母の実家の姫路へ、ここには私1人だけ預けられ1年ほど過ごしました。祖母、両親は祖母の実家へ、同じ姫路で近くにある。

艦載機に追いかけられて

 母の実家から1年生、学校に。帰宅途中に艦載機がどこからともなくやってくるのである。

 だんだんわかってくると、雲が何となく早く動いていると、その雲の中から、エンジンを止めて急降下してきてバリバリと機関銃を撃ってからウイーーンとエンジンを鳴らして上空へ学校からの帰り道は、空を眺めながら、早い雲を見つけると注意していて艦載機が急降下して来ると草むらに飛び込んで隠れる。そんなことがたびたびありました。

 あるとき畑仕事をしている人がやられたことがありました。家の屋根すれすれまで降りてきて遊んでいるようにも思いました。パイロットの顔が見えるほど低く飛んでくるのです。鬼のように思っていました。

 戦争が終わり母の弟さんが兵隊から帰ってきました。すごく大きな人で、ご飯を4~5杯はペロリと食べるその兵隊さんコンペイトウを持って帰ってきた。こんなおいしいお菓子食べたことがない。おどろきました。戦争が終わると私の日課は、牛追いと風呂焚きである。夕方になると河原に牛を連れて行く仕事、ケンカをして困ったことも、牛に踏まれたこともありましたが日課でした。そして、風呂焚き、ワラで焚くのです。そんな2年生の夏でした、河原の近くにある墓掃除に1人で草刈り釜をもって、草刈りに行きました。そこで、草と一緒に足を切ってしまいました。シャツを脱いで傷口に巻いて家に帰ったのですが、この時は泣きもせず、シャツは真っ赤になっていました。当時は医者も居ないので兵隊さんが持って帰ったクスリで治しました。傷口を縫わずでしたから今でわ4~5センチ傷口が開いたままです。

終戦直後の状況について

 お城の近く、練兵場の跡を小学校として使っていた城南小学校当時小学校3年生から姫路の市街地へ、城南小学校へ転校、学校のすぐそばが自宅、近くの赤煉瓦の銀行の焼け跡がそのままになっており遊び場になっていた。練兵場の門の所に門衛の小屋に今で言うホームレスが住み着いていた。食べるものがなく、トンビを食べていた。
 臭い肉で食べれるものでないが・・・、羽をもらったことがある。ある時、その門の上に進駐軍(アメリカ兵)がチューインガムを噛みながら座っていた。なぜそうなったのか記憶はないが、祖母が私のために、チューインガムとたまねぎを交換して警察に連れて行かれ、叱られたのお覚えている。交換するときに、沢山の人だかりになり、警察が来て連れて行かれ、おまえのような非国民が居るから戦争に負けたんだ。「しこたま」祖母が叱られた。その後ろに隠れるように祖母に寄り添っていた。
 進駐軍はタマネギを生でかじっていた。野蛮人に見えた。

食糧難で大変だった

 おいもが主食、「いもがゆ」はほとんどがお芋。父が九州まで買い出しに出かける。大きなリックを担いで、すし詰めの列車で一旦乗ると身動きできないのである。トイレも行けない。パンツを汚して、母に叱られていた。そんな思いをして姫路駅につくと警察が張り込んでいて没収されるのである。
買い出しは違反なのだ。なぜいけないのか、未だ調べたことがない。苦労して買い出したのにみんな没収される。そんな危険をおかしても、食べるものがないので買い出しに行くのである。当時の都会人は大変だった。お魚でも、姿があるのを食べたことがない。いつも「あら」である、今なら「あら炊き」でご馳走だが、骨を最後はお茶ですすぎきれいに食べていました。
 お米もない、人造米・おおへん米(どんな字なのか)トオモロコシの粉を固めお米にしたようなもの。
焚くとねちゃねちゃで美味しくない。だんご汁もそうである。今ではすいとんと言って美味しいが、当時のすいとんはナンバ粉、トウモロコシの粉、食べれるものでない。

衛生状況も大変でした

 シラミ、・・・大変。パンツの縫い目にいっぱい居る。爪でつぶすのである。頭や背中にDDTの粉をかぶされ真っ白にされる

戦争は2度といやである

 今、ガイドライン法、何のことはない、アメリカの戦争に協力するための法律、自衛隊が海外に、どこにでも行けるようにする、それだけではない。有事、ことあれば自治体も協力させられるのである。
国会に憲法調査会が発足、自民党は9条を改悪して軍備を持ち、攻撃出来るようにしようとしている。
国会ではアメリカの核持ち込み密約がアメリカの情報公開で明らかになった。しかし、総理は認めず、調査も拒否調査すれば明らかになるからである。
 戦わずして平和は守れない。自民党政治を終わらせよう

21世紀になった

 2大政党時代、なんと国会議員の8~9割が憲法変えると言い出した。憲法があっても勝手な解釈をつくり海外派兵アメリカ言いなりで、苦しい言い訳しなくてよいように憲法を改悪すると・・。
 なぜ人殺しに賛成するのか

↑上へ