大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

45年6月から8月にかけて

小川 和治(元 大阪市立市岡中学校教員)

 50年前の6月1日の「大阪大空襲」で、今の西区千代崎橋を中心に家々が焼かれ、西九条一帯の市電の通りに「焼き死体」が並べてあるのを大正区から歩いて見にいきました。その時の光景は今でも私の目の底に残っています。とくに大正橋から、大阪ガスの前を通って、千代崎橋になると50mぐらい死体が並べられてあったことは忘れることができません。
 6月10日は、大正区の工場地帯にあった我が家が、近所の家々とも戦災にあいました。旧制市岡中学校の一年生でした。真昼でも戦災のため真暗になった電車道を境川から大正橋を通って歩いて、家にたどりついた時、水道管だけが残っていて、本類がまだくすぶっているのを見ました。近所の友達が、お母さんがいないと泣いでいました。私も一緒になって「おかあさん」と叫びながら泣きました。隣組の防空壕に20人入っておって、16人も死にました。私の母は幸いに助かりました。友人のお母さんは焼き死体となっていました。死体が土の中から一つ一つ出できました。丸こげになった人、むし焼きになった人と、全部防空壕の出口にむいていました。
 家をなくした私たちは、小学校で1週間すごしました。ついこの間、卒業式をした講堂に死体が運びこまれました。赤ん坊をだいて、乳を飲ませている所で死んだ人、赤ちゃんはまだ生きているかのように乳ぶさにしゃぶりついていました。夜中に便所にいく時、講堂の一遇から、リンが雨に打たれて出ているのを見ました。

 その後、8月15日、田舎の役場の広場へ、ラジオ放送を聞きに行きました。私は何だか、はりつめた気持ちがくずれていく思いがしてなりませんでした。母から戦地に行っている父がやがて帰ってくると聞かされ嬉しくも思ったものでした。

 私の青春期のできごとが、其の後、成長した大人になって、戦争をにくしみ平和を求める運動にも立ち上がることができました。「教え子を再び戦場に送るな」の考えでこの間教員生活をおくっています。生徒たちに、戦争悪について必ず話しを聞かせます。我が息子たちにも聞かせたりしてきました。
 日本が再び戦争をおこすような国にならないためにも戦後50年の今年、真の平和を求める政治を、必ずつくりあげていかねばと決意を新たにしています。

「戦禍に追われて(3) 戦後50年に寄せて 1996年夏」所収
戦争はいやや西区平和展実行委員会編集刊行

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