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私の戦争体験記「豊橋空襲」

西岡 豊子(執筆当時 大阪市立井高野小学校)

 昭和19年3月、生まれて2か月しかたたない弟をつれて、私たち一家は東京から愛知県の豊橋へ引っ越しました。首都東京は、真っ先に攻撃されるからということで強制疎開が始まり、すぐ近くの家まで強制的に取りこわしが迫っていました。私の家族は、両親と兄(中1)姉(小6)姉(小3)私(5才)妹(2才)弟(0才)でしたが、万一の時、子どもが多いので東京にいては危険だと考えての疎開でした。

 豊橋は両親の出身地に近く、何かと頼れる人もいるとのことで引っ越してきましたが、すでに大都市からの疎開者が多く、まともな空家はほとんどなく、向山の豊橋動物園のライオンのおりに近いところの小さな家に移りました。夜になるときまったように、ライオンがウォーウォーとほえるのがこわくて、わたしたちこどもはふとんを頭からかぶってふるえていました。
 秋になって、近くの柿畑にバクダンが落とされ、けが人が出たことを聞きました。日増しに空襲がはげしくなりました。

 その1か月後、今度は米軍が攻撃目標をどう間違えたのか、動物園に1トンバクダンを12発落としてきました。-その夜、空襲警報のサイレンで、私たちは防空壕に入っていました。妹がねむくてぐずって防空壕に入るのをいやがったので、まだ部屋に寝かせていました。突然、ザザザーという音がしたかと思うとドーンとものすごい地ひびきがしました。私は、自分の家がやられ、もうおしまいかと思いましたが、中1兄は音と同時に部屋へとび込み、ガラスの破片のちらばった部屋から妹を抱きかかえて防空壕にもどってきました。ドーンという音と共に、黒い泥まじりの雨が、ザザーと降ってきました。その夜は月夜でしたので、雨のはずはない-と思っていたら、それは、動物園の噴水の池にバクダンが落ちたからだとわかりました。敵機が去り、夜が明けると、父につれられ動物園を見に行きました。教室が一個入るぐらいの大きな穴がいくつもあり、動物たちの死体らしいものがところどころにぺしゃんとつぶれていました。-1週間前、軍の命令ライオン・ひぐま・ひょうなどの猛獣たちは鉄砲で殺されていましたので、この夜の爆撃ではおとなしい馬・牛・いのしし・カンガルー・うさぎなどがどこかへふっとばされたり、肉片があちこちに散らばっていたのです。

 私の家は入り口の戸は閉まらず、棚のうえの物は全部落ち、どうにも住める状態ではなくなりましたので、今度は舟原町の中部中学-当時は陸軍歩兵部隊が駐屯中の運動場のすぐそばの小さな借家に引っ越しました。

 翌年、昭和20年は東京、大阪をはじめ日本中の都市への空襲が一層はげしくなってきました。小学校に入学した後も、学校に着いたと思ったら、すぐ空襲警報で、町会班別の集団下校で走って下校しました。時には途中機銃掃射を受け、軍のたこ壺状の防空壕にとびこんだこともありました。豊橋は軍人の町で、豊橋もあぶない?といわれだしたので、母親の実家-静岡県三ケ日)へ縁故疎開することになりました。明日早朝、引っ越し荷物を運送屋が取りに来るからと、荷造りしたものを玄関の間にかためて床についた夜中、はげしい爆音、空襲警報のサイレン、人の叫び声でおこされました。気がつくとあたりは照明弾で照らされ、まわりの家々から火の手があがっていました。何十機もの米軍機が焼夷弾をバラバラと2時間以上にわたって落としまくった豊橋空襲だったのです。

 父親が『山のほうへ逃げろ!」と大声で叫び、母親が乳母車に妹と弟と貴重品をのせ、2人の姉、私をつれて山の手に向かって逃げました。父は1人残って家を守ることになりました。私たちは煙と炎の中、山へ山へと逃げて行くうち、いつの間にか道がなくなり、さつまいも畑の中に入りこんでいました。乳母車をすてて、畝をまたいで進んでいると、「こっちへいらっしやい。」とある農家から声をかけてもらい、軒下に休ませてもらうことができました。

 ほっとする間もなく、その農家にも焼夷弾が落ち、「はやく逃げて!」という叫び声で再びとび出し、山の方へ逃げました。火の粉がバラバラとふりかかるのを、座ぶとんを頭の上にもって防ぎ、家族が離れ離れにならないよう、声をかけあいながら進んでいくと、大きな防空壕の入り口にたどり着きました。

 警防団の人が「中へ入りなさい。」と声をかけてくれ、私たち一家の居場所を指示してくれました。暗やみに目が慣れてくると、その中には何百人もの人が避難しているのがわかりました。濠の入り口では警防団の人が、豊橋の町を見下ろして、「豊橋駅あたりがもえている。」「町も…。」と、人々に教えていました。私たちの家は、高いポプラの木のあたりをさがしてもらい、焼け残っていることを確かめてもらいました。私も大人にまじって、焼け落ちていく豊橋の町町を、真赤なパノラマ写真でも見るように見ていました。時々、ボーンボーンとドラム缶が爆発する音が聞こえたり、真赤に燃えた家の柱がくずれ落ちる音などが響いてくると、人々の間から「ウォー」というどよめきの声がわきあがりました。

 何時間がたって夜が明けはじめた頃、町の火も下火になったので、私たちは自分の家へもどってみました。家の中は、全く見知らぬ人達でいっぱいでした。手や足に大きなボールのような火ぶくれをしたけが人とその家族の人達が、足の踏み場もないぐらい横になって休んでいました。1人残って家を守っていた父が入れてあげたのでしょう。あとからあとからふえてくるのです。

 私たちは、自分の家でも休む余地もないし、この焼けた町ではくらすことも困難ですから、予定通りその足で母の実家の三ケ日へ、山をこえて歩いて行くことにしました。(空襲は交通機関をすべて破壊していたのです。)

 父は再び1人残り、乳母車に妹・弟をのせ、母・2人の姉と私が乳母車を交代で押しながら、焼けた町を出発しました。まだ時々やってくる米軍機の低空の機銃掃射をさけながら走って走っての山越えでした。愛知県と静岡県の県境にある日本坂峠を越えたとき、トンネルの両側が倉庫になっていて、軍のトラックがそこから物資?を運び出しているのが見えました。おなかがすいて、山ぶどうの実を思いきり食べたことが今も忘れられません。夜中に真暗な山道を下り、村の灯がぽつんと見えたときのうれしさは今でも忘れません。

 母の実家は、母の長兄夫婦と1人息子の3人家族で、広い家はいくらでも私たちの住める部屋があったのに、私たちが敗戦の8月15日まで住んでいたのは、納屋でした。自分が生まれ育った家の中ではなく、農作物を入れる納屋に、畳を敷いて生活したのです。子ども心に母の気持ちはどんなにかくやしかっただろうと、その後もずっと私は思っていました。

 疎開していた2か月の間、姉たちは町の小学校へ、私は村の分校へ通いました。スカートと靴をはいて登校したら、村の子どもから石を投げられたので、村の子と同じモンペとわらぞうりで通学しました。畑の作物が盗まれると、「疎開者のしわざだ」といううわさが流れ、その度にいやな思いをしました。

 村に住んでいても、浜松の町が艦砲射撃で攻撃されたときは、恐ろしかったです。山と山の間をものすごく大きな火の玉がズズーンどとんでいき、地ひびきをたてて炸裂する音がひびきました。

 またある日、山の向こうの愛知県の方で、真黒い煙が空高くたてにあがっているのが見えました。母が「あれは豊川工廠かもしれない。お兄ちゃんが心配だね。」といっていつまでも黒煙を見ていました。その爆撃のようすは、九死に一生を得た兄が、後日話してくれました。豊川軍需工廠で働かされていた学徒動員の中学生や女学生たちが、何百人も死んだそうです。兄は集中的な爆撃の下、逃げようとした工場の門が、おしよせる生徒で満員で通れなかったため、別の門に向かって離れた直後、その門を目指して低空射撃があり、多くの死傷者が出たそうです。

 8月15日の昼頃、村の道を歩いていた私は、ふと人家から聞こえてくるラジオの声に異様な感じを受け、走って家に帰ると母が、「戦争が終わったよ。豊橋へ帰れるよ。」と、心からほっとした顔で言いました。その夜黒い布をはずして電灯をつけられたうれしさを思い出します。

 9月に豊橋へ帰ると、私の新川小学校は病院となり、多くの傷病人を教室に収容していました。私たちは、近くの集会所や幼稚園に分散させられて、授業を受けました。学校にもどってまともな授業が始まったのは、半年後位からだったと思います。毎日おなかをすかしていました。子どもの多い我が家の両親は、食べさせるための苦しいたたかいをその後、数年問続けなければなりませんでした。戦後生まれた弟も含め七人の子どもたちを、無事に育ててくれた両親、特に母の苦労をいつも真近に見ながら育った私にとって、戦争中の母たちの姿が、その後の生き方に強くかかわってきたように思います。

戦争体験記録文集「子どもたちに平和のバトンを」所収
(編集発行/大阪教職員組合婦人部1995年9月6日発行)

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