大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

昭和20年8月14日のこと

木村 良子(城東区在住)

 そうです。この日は終戦の前の日のこと。正午すぎ、今の環状線京橋駅に1トン爆弾が投下されたんです。レールはアメの様に曲がり、梯子を立てたように跳上り、ホームは大きく波打つようにくずれ、避難していた数百人の乗客は、爆風に吹き飛び、あるいはガレキの下敷きになったのです。片町線との交差点は頑丈そうな石の塀で囲まれていたので、大勢の人がひたすら逃げ込みました。その場所が一瞬にして何百人という人を死なせてしまったのです。

 この日、石やガレキに腰まで埋まった多くの人を、わずかな人力では助けだせないまま、日がくれてまっ黒な中から聞こえていた救いを求める声も、夜が更けるにつれ細く小さくなって、その後の京橋駅は死後の世界となりました。

 14日は、B29が飛来して、森の宮の砲兵工廠を中心に爆弾を落としたのです。その時、京橋に入ってきた電車に、私の父が乗っていました。大阪駅での警報解除で動き出した電車にやっとの思いで乗ったのであろう父。今度はいきなり空襲警報が発令され、大急ぎで片町線の方へ逃げた人々の中に父がいたのです。何時になっても帰らぬ父を町内の人が、もしやと思って捜しに行って3日目に見つけてくださったのです。爆風で、一瞬のうちに死んだらしいのが、せめてもの救いでしたが、もう戦争は終わっていました。もう一日早く戦争が終わっていたら、死ななくてよかった人がこんなにたくさんいたんです。出征したわけでもなく、町の中で普通に暮らしていた人たちです。そして、父を失った私たち子供たちと母との苦しい生活への戦いが始まりました。戦争は、戦う者も戦わない者も、無差別に不幸にします。終戦後、森の宮から京橋駅までの線路の両側は、ずいぶん長い間「アパッチ横丁」などといわれた見渡す限りの焼け野原でした。それが今の大阪城公園なのです。あまり素晴らしい場所に変わってしまって、あの日死んだ人たちはどう思っているのでしようか。

 どうか、皆さん、忘れないで下さい。あの日のことを!

「戦争を知らない婦人に贈る第2集 今、語っておきたい私の体験と平和への願い」
城北支部婦人部/1987年発行/所収

↑上へ