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予科練と非国民

金井 清(執筆当時 緑中学校教員)

 旧制の中学1年の12月、ハワイ真珠湾奇襲攻撃のニュースを聞いた少年は、1940年代の前半どんな戦争体験をしたのでしょうか。戦争末期の3つのことを述べてみたいと思います。

1.予科練と非国民

 昭和19年5月頃、敗戦が色濃くなってきた頃。中学4年生の私たちに担任の先生は、この国家存亡の危機に全員が決起しなければ鬼畜米英をやっつけることはできないと、いつも通りの説教をしたあと、急に真面目くさった顔をして、
「みんなが日本男子であるならば、全員が予科練(少年飛行兵)に志願したもらいたい。」
と、いつもの青い顔をいっそう引きつらせて強調した。そして、願書用紙を私たち生徒一人ひとりに渡して、
「明日、これに親のハンをついてもってこい。」
と指示した。

 クラス33名の生徒のうち、翌日先生に願書を出したのは、3名だけだった。激憤した先生は、その日放課後、生徒30名を残して、またもや長い説教を続けたあげく、
「みんなお国のために死ぬ気があるんやったら、必ず親のハンコをもらえるはずや。1週間だけ待つ」
と青い顔を赤くしてふるえながら怒鳴った。

 自分の決心がつかないので、親にいいだしかねていた私も、先生の2度にわたる強い催促にたまりかねて、どうせ戦争で死ななければならないのなら、あこがれの飛行機にのれるカッコいい予科練を受けてもよいなあと自分を納得させるとも、ごまかすともつかないあいまいな態度のまま、その夜、父にきりだした。
 父は即座に、
「アホ!なんちゅうこというんか。先生が強制するはずがない。お前が予科練のかっこにあこがれてそんなウソつくんやろ。絶対あかん。」
と許してくれない。私は先生の説教の中身を覚えている限り父に伝えて、私のウソでなく、先生から強くいわれたことで、自分も決心したと繰り返し父に訴えたが、父は、
「学校の先生が、お前ら子どもを無理に戦争にやるはずがない。お前ももっと自分の将来を真剣に考えろ。無理して死にゆく必要はあらへん。親がどれほど苦労してお前らに飯くわしているのかわからんのか。アホなこと考えるな」
と強く拒絶されてしまった。

 翌日、教室で先生に父とのやりとりを話して願書がだせないとことわると、先生は何を思ったのか大声で、
「お前の親は非国民や。」
とクラスのみんなの前でどなった。あっけにとられたのは私だけではなかった。クラス生徒みんながびっくりしたようだった。自分の席にもどり坐ったとたんに、私はカッとなってきた。頑固ではあるが決して無知ではないと信頼している父が、先生によって罵倒されたのである。「非国民」というレッテルをはられたのである。私の腹立たしさはいいようがなかった。そしてその日以後、今までもちつづけていた担任の先生への信頼は一挙にくずれ去ってしまった。

 今にしていえることは、あの先生の言動は自分の意思でなかったかも知れない。上の方から半強制的に指示されてやったことかも知れない。受け持ちの学級から、何人かの志願兵を出すよう余儀なくさせられていたのではなかったかとも思う。自分の手で教え子を戦場に送る役目を負わされ、直接にこれを推進した自分自身に腹が立っていたのではなかろうかという気がするが、真偽のたしかめようもない。私は、あの先生に卒業後も一度も会っていないし、手紙を出したこともない。

2.戦時下の進路

 旧制の中学校、高等女学校は、5年制であった。貧農の次男であった私はカネがないため、小学校6年卒業後、すぐに都会の昼の中学校には行けず、田舎の高等小学校へいった。私の郷里では、お金持ちの息子を除いて大部分が高小へ行くのが当たり前であった。おかげで他人より2年の回り道をして、昼は働きながら、京都府立1中夜間中学に入学した。今の定時制高校にあたる。なぜか「中学」であり、「校」の字がぬけていた。先生に聞くと文部省の方針だという。夜間は一人前の中学校として扱われていなかったのである。

 敗戦の1年前から中学校は終業年限が1年短縮され4年制になった。理由は青少年を1日も早く軍隊へ入れるためということだった。
 小学浪人を2年やっておくれていた私には、1年短縮はありがたかった。思わぬ早く卒業が迫ってきたので進路のことが気になったが、先生や親とは全く相談しなかった。どうせ戦争で死ぬんだとぼんやりながら覚悟はきめていたのが当時の青少年である。戦況がよくないことはおぼろげながらわかっていた。戦争が終わるのはいつかわからんが、それまで俺は生きていることはできないんだと思っていた。
 それならカッコいい飛行機乗りになりたいというのが以前からの夢だった。もちろんその当時乗るべき飛行機がすでになかったことはまったく知る由もなかったのである。

 そこで軍隊志願は親がいやがるからと飛行機に乗れそうな学校を探した。第1に航空機乗員養成所(現航空大学校)を受けてみたが、転回機にのせられてグルグル回されるテストで失格。運動機能と能力に欠けていた私は操縦士をあきらめ、無線電信士でも飛行機に乗れると思いこみ、次は無線電信講習所(現東京電気通信大学)と高等商船学校(現神戸商船大)を受験した。これらの学校はいづれも授業料不要で官費生だったことも魅力だった。しかし、将来の軍人中堅幹部を想定していたこれらの学校の身体検査はきびしく、私は両方とも胸囲2センチ不足で不合格となってしまった。

 その結果、行くところがなくなってしまい、やむなくもうどこでもよい、徴兵猶予のある理科系ならばどこでもよいと思うようになった。
 なぜなら、私の兄が高等工芸(現京都工繊大)を出て予科練の教官となり、郷里出身者で初めての海軍士官として短剣をつったカッコいい姿でもてていたから、自分もどうせ軍隊なら、そのためにはいや応なしに理科系でなければならなかった。

 卒業をあと1週間にひかえ3月下旬やっと京都臨時教員養成所へ合格することができた。この学校は高等師範4年制を1年短縮した3年制で中学校の理科教員を養成するため、戦時中に全国8ヶ所につくられたにわかづくりの教員養成学校だった。近代戦をかちぬくため国民の科学技術水準のアップをはかる、そのため短期に物理化学の教員を大量に養成せよというのが国(軍)の方針であった。京都は3高におかれていたので授業内容は3高の理科と全く同じで、教員養成らしいところはすこしもなかった。
 後日、私が教職についたのはこの学校を出たためかもしれないが、当時は教員になることは少しも考えていなかった。

3.勤労動員と空襲

 4月に臨教に入学したが、学校の授業はいっこうに始まる気配がない。待機せよと言うばかりである。2ヶ月以上たった6月下旬、やっと連絡があったが勉強ではなく工場行きであった。「勤労動員」という、当時大部分の中学生・女学生・高専生を軍需工場で働かせる徴用令であった。京の南部、山城地域の田んぼのまん中にある国際航空京都製作所(現日産車体宇治工場)という、だだっ広い大工場で飛行機の部品づくりの作業がまっていた。もちろん、全寮制24時間体制に組み込まれた。

 新しい工場のせいか、宿舎も新しく10人がつめこまれた部屋はさして苦痛ではなかったが、ご多分にもれぬ空腹には悩まされ続けた。
 食事は木の弁当箱にほんの少し入れられた大豆か豆かす80%のめしで、米粒はこの大豆や豆かすをバラバラにとびちらないようつなぎの役を果たしているにすぎない。それでも、水分の多いお粥にならされていた私たち生徒は、歯でかめる「めし」だったので、みんな大喜びである。おかずはいつもほんの少し塩気のあるみそ汁と芋のつるの煮物で、肉はもちろん魚の姿もみたことはなかった。

 私が配属された工場は、機械工場で、ターレット旋盤という重機を操作して切断した鉄棒から、ボルト・ナットの原型をつくりだす仕事であった。飛行機のどの部品に使われるものか、まったく説明もされないので、かいもく見当がつかなかった。何より驚いたのは、このターレット旋盤は、もともと1人で操作する機械でありながら、そこに配置された工員は4人もいたのである。今日の合理化人べらしとはまったく逆の現象である。鉄もなければ技術も未熟な当時の日本では、ターレットのような工作機械を自前でつくることはできず、輸入にたよっていたものだが、戦争末期にはそれもできず、少ない機械に対し、勤労動員だけは無計画にすすめ、私たちの工場は人あまり現象となっていたのである。

 先ず徴用工のオッさん(もと友禅染職人)、次に工業学校生徒、それから女子挺身隊のお姉ちゃん、最後に勤労動員の私である。仕事ができる能力もこの順序である。15歳の工業高校生の少年は、学校でやっていた実習のせいか、18歳の私や22歳のお姉ちゃんより明らかに腕が上であった。1番後から配属された私は、もっとも新米でしかも余計者だった。しかし、余計者は私だけではなかった。1人が作業している時は、他の3人はすることがないのである。やむを得ず機械のカゲにかくれて遊んでいるしか時間をつぶす方法がなかった。オッちゃんが機械を止める1日2回の休憩時間だけ、私たち3人は機械をボロで拭いたり、金属片を掃除したりして働いた。オッちゃんは
「お前らにやらせたら仕事にならん。俺が怒られるから遊んどけ。」
と機械の操作をさせなかった。ある時、巡視中の配属将校にみつけられどなられたので、私がオッちゃんに頼み無理に機械を操作したところ、たちまちバイト(金属を削る刃)を3本も続けて折ってしまい、製品はオシャカ(不合格品)を出してしまい、大迷惑をかけた思い出が残っている。

 そんな動員生活のなかで唯ひとつの楽しみは、米軍機の空襲であった。空襲で何千万人も殺害されたあの戦争で、仮にも空襲が楽しかったなどとは言語同断きわまりない話であるが、空襲で人が焼き殺され、傷つけられ、家が焼かれる悲惨を知らなかったのである。すでに東京・大阪の大空襲のあとで全国の主な都市が次々とやられていたにもかかわらず被害の実相は知らされるどころかひた隠しにされていたので、直接伝聞を聞くこともなかった私たちの意識に空襲の実感がなかったのであろう。

 私たちは空襲警報のサイレンと共に工場から逃げ出して、近くて500m、遠いところは、1粁も離れた山腹の横穴につくった防空壕へ入るように指示されていた。サイレンと同時に1番早く走り出すのはオッちゃんだった。そのあとについて私たち3人も走り出すのであるが、工場の労働者全員がいっせいに走り出すので、たちまち混乱状態がまき起こってくる。息をきらせて山腹までたどりつくと、手近な横穴に飛び込んでいく。防空壕は市街地にみかけるような役に立ちそうもない小さいものでなく、一つの壕に50人近くも入れるような高さ2米、奥行きも20米の長さの本格的なものだった。多分、工場が軍の命令で建設したものであろう。

 オッちゃんの姿を見失った私たちは、近い穴はもう満員で入れないので、できるだけ遠くまで走っていって、空いていそうな穴を見つけるため必死になった。警報が解除されると警防隊員が穴の入り口から大声で解除を告げてまわった。穴の人たちはぞろぞろ工場へ帰っていった。私とお姉ちゃんは一番あとまで残った。帰ってもどうせ仕事はない。オッちゃんも工業高校生には時々仕事をさせるが、私とお姉ちゃんには機械の掃除以外はめったに仕事をさせない。それをいいことに私たち2人はできるだけのろのろと時間をかけて、1粁の道を道草しながら帰った。2人が工場へもどったときは、最後の帰着者になっていた。

 このような空襲は、7月中に3度、8月に入ってからも1度あったように思う。そのうちの1度は、私たちの工場が直接ねらわれて、米軍の艦載機によって、竹藪の中に迷彩をして隠してあったエンジンなしの輸送機3機がやられてしまった。それが知れわたり、労働者はみなくやしがったことがあった。
 私はこの時以来、空襲を心待ちにするようになった。空襲のたびにお姉ちゃんと息を切らせながら走り、心をはずませながら防空壕へとびこむという小さな逃避行が、何かとてつもない大きい冒険のように思われたのである。あの暗黒の戦争末期に、突然、青春の灯がともされたように少年の胸は高鳴っていたのである。 

(中見出しは編集部)

城北支部女性部「戦争体験文集」第2集所収 1987年発行

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