大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

戦争と私

飯田 光代(鶴見区在住)

(1)女子挺身隊

 私は、昭和19年3月、女学校を卒業した。お国のためにそれが当然の事のように約半分の人が挺身隊に入り、半強制的に工場(軍需工場)へ就職させられた。私達、60名は、十三にある計算機工場に配置された。工員である。

 まだ19年は、国防色の作業服上下が与えられ、作業に入るまでの二か月たらずは、工具の使い方、機械の使い方、部品の用途説明及び構造、計算機の使い方、用途等々毎日講義があった。工場見学他社の工場の見学もあって、学生の延長のような毎日で、教養、学習、歌の練習と楽しい日々で月給をもらった。

 六月、現場に入って私は手回し計算機の組み立てをした。夏が過ぎる頃からいろいろな敗戦のニュースが伝えられ、工場にも原料部品が入らない日があるという話を耳にするようになった。毎朝回ってくる将校から
「戦争に勝つためにこの計算機はなくてはならないものだ。天皇陛下の御ために心をひきしめて、1台でも多く軍へおさめるのだ。」と言われ続けたが、一体どこへ使うのだろうと話し合った。仕事はしたくても部品がなくて組み立てられない部分もでてきた。

 新聞は、だんだん枚数が減り、1枚になり、1頁になり、それがまた半分になった。皆が知りたいことは何も報じられず、中年の男の人にも招集令状がき、少年兵が出征していく。街には年老いた男の人と女・子どもばかりという感じで工場も男性がだんだん減っていった。

 『ほしがりません勝つまでは』という合言葉どおり、何もない生活がやってきた。食料がいよいよなくなったのは、寒い冬、その年の暮頃からであっただろうか。

 米は玄米で配給され、家ごとに1升ビンに竹の棒をつっこんで上下してついて少しでも白くした。(玄米だとおかゆにならなかった。量を多くするために水や芋を入れてぞうすいにして食べていた)。
 麦は、丸麦のまま臼でひいてあらい粉にし、皮のふすまもぞうすいの中に入れた。豆は、虫の入っている、満州からくるというのが、もっぱらのうわさであった。米も麦もなくて、大豆ばかりが配給されることもあり、1か月分が、20日分ぐらいにとうとう15日分ぐらいしか配給されなくなった。それも遅配、遅配でこれでどうして動けるのか……。野菜も肉も魚も配給で、それも1週間に一度、何か1品というふうにあてがわれて、何が買えるのかわからない、というありさまであった(塩いわし1人1匹・スルメイカ1人半匹等)。

 お腹をこわしても薬はない医者もいない。やせてやせて目とお腹だけが大きい栄養失調の人々がふえていった。

 川の土手、電車の軌道の斜面、学校の運動場、庭とはいわず、道とはいわず土のあるところには、にわか畑がつくられ、出来の悪い芋や野菜が細々とはえていた。寒くなっても暖をとる柴も炭もない。私の家では18才の私の下に4人の弟妹がいたが畳の下の床板を1枚とばしにはがして、燃やして食事の用意をし、生け垣の木を切っては生(なま)しいのに燃して暖をとった。古いノートも下駄も燃えるものはみなたいた。下着も新しく買えない子ども達は、それでも大きくなるので着る物がなく、母の帯芯(昔はもめんのネルがつけられていた。)を全部ぬいてパンツやシャツをつくった。白いカーテンもシャツや足袋にばけた。

 私達は、生駒山麓の枚岡に住んでいたので夜に山道を歩いて米の買出しに奈良の方へ行った。母は育ちざかりの子ども達に食べさせるために山に畑を借りてつくっていた。買出しの帰りに山道からすべり落ちたこともあった。落葉やささなどを刈っていては、柴を取ったのではないかと警察につれていかれたこともある。中学生の弟はもちろん、小学校6年生の妹まで農業用の水路の土運びの勤労奉仕にかりだされるようになった。

 でも、挺身隊の娘達は寒さとひもじさと着るものも着れないみじめさをかくしてわりと明るく元気よくしていた。3人よると孤狛狸(こくり)さんとよばれていたうらない遊びをした。
「戦争は勝つでしょうか。教えてください。」
といって、3本のはしの上に水を入れたさかずきをおいて指で動かすのであるが、いつも「まけ」とか「おしまい」とかがでて、「勝つ」は10回に1回ぐらい、皆何かしら暗い気持ちになるのであった。

(2)大阪大空襲

 昭和20年1月、大阪にも敵機が来た。どこででも空襲の危機がうわさされ出したが、私達は何もくわしい事は聞かされず、神風が吹いて敵機が吹き飛ばされるという夢みたいなことを本気で信じて負けるということは考えないことにして、ただただ戦争が終わることを祈った。常識ある人達もめったなことは口にせず、皆本土決戦が何を意味するか、頭ではわかっていても実際にはどうなるかわかっていなかった。

 3月に入って東京大空襲があったと新聞に小さく出た。13日の夜から14日の未明にかけての大阪大空襲は、真夜中、花火がはでるような音で目がさめた。

 生駒山麓から西の方を見ると空の雲まで燃えているのかと思うほど赤々と炎をあげ、花火のような火の雨が降っていた。寒い夜であった。高台へ集まった村の人達は西の方を見つめながら人ごとのように
「大阪は全滅やろか。」
「何の爆弾や。」
などと口々に言い
「ここまではこんやろうけど、装束だけは着て寝えや。」
と家に入った。

 夜があけて、一番に外へ出て西の方を見たが、西の空は真っ黒で、東の山の方から朝日が昇るのと対称的であった。

 ニュースは、大阪の中心部に焼夷弾が何万も落とされて焼失したことを簡単に告げた。避難してくる人々が、私達の村にもやってきた。皆すすにまみれてまっ黒で、毛布やぼろぼろに焼けこげたふとんをかぶっている人、子どもの手をひいてずきんと雑のう以外は何ももっていない人が多かった。

 未明に空襲があっても工場へは行かなければならない。電車は動いているだろうかと思いながら鶴橋まで行ったが、そこで皆降ろされた。鶴橋から線路を歩く人が多かったが、私は省線(環状線)に沿って玉造へ出て西へ、府庁の前から天満へ下って北浜へ、この辺りは被害をうけておらず南の方はまっ暗で火がくすぶり続けて熱くて近づけなかった。時折、黒い雨がザァーと降ってずきんや肩にまっ黒にしみた。

 中之島を横切ってほとんどかけ足で歩いた。被災者の列は四方に外へ外へと続き、身内を気づかう人は中へ中へと急ぐ。大阪駅は身動きもできないほどの人でごったがえしていた。

 工場に2時間ほど遅れて着くと会議室で副社長と配属将校の訓辞が行われている最中であった。
「この後、度々このような空襲があるものと思う。流言にまどわされず、天皇陛下のため国のため仕事場と銃後を死守せよ…。」

 空襲は油脂焼夷弾であること。空中で大きな爆弾が炸裂し、無数の火の玉になって落下、物にあたると四方に油になって飛びちり一度に燃えあがる。そのため軒下の防火用水につけてあった縄の火たたきもバケツの水もいっさい役にたたずじまいであったことが、いろんな人達から語られた。空襲警報で防空壕に入ったために焼け死んだ人が多かったとも聞かされた。

 今まで戦争は遠くの他人事であったものが一度に身近にいつ自分の身にふりかかるかわからない死の恐怖が皆をおそった。この後、空襲がはげしくなるたびに、上本町6丁目から大阪駅まで約7キロの道のりを何度も歩くことになった。

(3)焼けあと

 3月17日、今度の大空襲(13~14日)で、工場の人達も多数罹災していることがわかり、60名の挺身隊員にも5人の被災者が出た。3日たっても何の連絡もない。この友人たちを副社長と課長の命令で探しに行くことになり、班長と私と友人と3人で午後出かけた。 梅田から動かない市電の軌道を南へ堂島川をわたって御堂筋を行くにつれて、見わたす限りの焼け野が原が広がってきた。油脂ときなくさいにおいが鼻をつき、行くほどにすさまじくなってきた。

 大きなビルはそのまま建っているが、中はがらんどうですっかり焼け落ち、
「これが大丸・そごう。」
とまだ熱い壁をさわりながらぼう然とした。白く赤く焼けただれた瓦礫の山、道も土も石もまわりは、ま夏のような暑さである。穴のあいた靴では足の裏がはれあがりそうなほど暑い。

 大丸のそばのNさんの家もない。三休橋のKさんの家もくずれ落ちて松屋町のNさんの家もなかった。燃えるものは何もかも燃えつくし、色のない世界のように白っぽい赤茶けた景色が続いていた。へびのようにまがった水道管の蛇口から音もたてずに水が流れて、そこだけが黒っぽくはっきり土をうきたたせていた。ところどころの焼け残った土蔵が印象的であった。

 転居先も書いてなく、町名もどこかわからない。この辺りが日本橋だろうとYさんの家をさがしていると、瓦を堀おこしている人がいた。その人を見て、
「Yさん、元気やったん。」
と友人がだきついた。
「皆、けがせえへんかった?」
「皆は…。」
泣くYさんをなだめて聞くと、両親が和歌山の親類へ荷物を疎開させにいった留守のことであったらしい。おばあちゃんをおぶって生玉さん(神社)の方へ逃げたら、また生玉さんが焼けて、おばあちゃんが、「わしはええから、おまえだけ逃げ。」と言うたので、火のこない石垣の下へおばあちゃんをおいといたそうだ。泣いていた。
「あとで、おばあちゃんも元気やったからよかったけど、何でほっといて逃げてんやろ。」
とまた泣いた。
「何もかも燃えてしもた。住むところもあらへん。何でこんな目にあわんなんねやろ。」「でも無事でよかった。KさんもNさんもどないしてんやろ。」

 Yさんは、天王寺にある役所に罹災証明をもらい、和歌山で一時住むことにし、工場はやめることを班長に申し出た。工場から出た見舞いのぬか入りのカンパン(当時は本当に貴重品であった)をわたして、Yさんと別れた。

 上町筋は焼け残り、母校も無事で罹災者の避難所になっていた。私達は暑いのでずきんも上衣もぬいで恥も外聞もなくつぎはぎだらけのシャツで歩いたが、はだかで歩いている人も多かった。土も燃えて、こんなに何もかもなくなってしまったのに、ま夏のような太陽が何事もなかったようにふりそそいだ。

 あくる日、Mさんは四国へ、Kさんはやけどで堺の病院にいることがわかり、友達が見舞った。傷だけでなく、結核にもなっていたそうだ。Kさんは、終戦をまたずに亡くなった。最後に会った時、あまい饅頭が食べたいと話していたが……。美しい人だった。

(4)大空襲後

 3月14日をさかいにして、大阪は急激に変化した。重要建物の周囲は人家の強制疎開が急速に行われた。大阪駅の周りは、広い範囲にわたって家のとりこわしが行われ、省線(環状線)のホームから見ると中之島の市役所まで見えるようになった。南は梅田新道まで何もない広場になったのである。

 人々の様も変わった。家を失った人達が、とくに子どもがあわれな姿で駅や地下街に座りこんでいた。焼けあとにトタンや焼けこげた板や柱でほったて小屋を建てたり、焼け残った学校や寺にひしめきあっていた。もちろん、学校の授業などおちついてしていられなかった。

 電車は、ガラスが破れたまま鈴なりに人がぶらさがり、窓から出入りは日常茶飯事となった。駅前の広場や淀川の河原で夕方身元のわからない死者を焼く煙が上り、何ともいえないにおいがした。駅とはいわず道とはいわず人は物を食べ、特にいり大豆を1つぶずつかんでいる人が多かった。商店には、物はすべてというほどなく、買うものはやみからやみであった。紙やえんぴつまで手にはいらなくなり、私の家も便所に昔の大福帳をなるべくちいさく切って入れた。風呂屋も夕方から8時までとなり、それも後には週2日になった。家で風呂をたくなどもってのほか、その柴でおかゆが1週間も炊けたのだ。シラミがはっていて、外でシラミとりをしていても平気になっていた。

 夜は1灯しか電灯はつけられず、黒い袋のおおいをかけた下に皆あつまって外へ灯がもれないよう2重の黒いカーテンをはり、雨戸のすきには黒い紙で目張りをするよう、お達しがあった。警報が出て、少しでも灯がもれると隣組からひどいお叱りをうけた。

 今の世では考えられない事だが、鼻をつままれてもわからないようなやみ夜であった。それでも、敵機は正確に爆弾を落としていった。白壁は艦載機の目標になるというので墨で迷彩せよ、ガラスは爆風で飛び散らぬよう両面から紙をはるように…、でも、これら命令されたことは、以後1トン爆弾・500キロ爆弾が落とされた時、何もかも役にたたず、家ごと人もろとも吹き飛んだのである。

 強制疎開や爆撃で自分の家が無くなるということは、都会ではもう覚悟の上であきらめ気分が多かった。命の保障さえない時に誰もが虚無的で無力で無神経で、そのくせ、皆信心深かった。もう神だのみしかなかったからである。人民の命は、天皇にあずけて死ぬことが大切で、生きのびることは恥のように人々は口をつぐんで言わなかった。

(5)北大阪大空襲

 4月5月、非常に平穏であった。だが、艦載機の爆撃は日をおってひんぱんになってきた。

 20年6月に入ってからは、とうとう昼間から編隊で爆撃するようになった。沖縄に米軍が上陸したといううわさが語られるようになり、警戒警報は出っぱなしで解除になってもまた、発令され、空襲警報も解除されない日が続くようになった。小型の艦載機が「畑仕事をしている人を機銃掃射した」「学童を掃射した鬼畜米英」などのニュースが新聞に大きく出ていた。大編隊で波状に小型機が上空を飛びかい、思わぬところが爆撃され、郡部であっても、決して油断出来ないという感じを人々に与えた。私達はそれでも工場へ通った。

 その日は6日だったか7日だったか、正午頃朝から出ていた警戒警報が空襲警報にかわったとたん、
「北大阪上空に敵機B29をみとむ。」
とラジオが叫ぶように言い終わるか否か爆音とともにお腹にズーンとこたえるような爆発音。工場のガラスが4、5枚飛び散り地震のような震動とともに物の倒れる音がした。
「近いぞ、全員避難。」
その部屋にいた30名程は、重なるように地下室へ急いだ。その道で、200m程はなれた武田薬品の工場が煙をふいていて、続くドカーンという音とともに土けむりが高くまいあがり、ザーと降ってくるのがわかった。

 私達はもしもここに落とされたことを考え、とじこめられないためになるべく入り口近くに防空ずきんを深くかぶってうつぶせた。腹の底までつき上げてくる爆音と破裂音は、休むことなく2時間あまりも続いた。

 様子を見ようにも地下では見えない。地上はこわい。でもあまりのこわさに地下壕からもぬけ出したとたんに爆風や落下物で死んだ友もある。足のひざがかたくなって、がくがくするような いてもたってもいられないような気持ちで皆目と耳ばかりで外をうかがっていた。力を入れていたのだろう、爆音が聞こえなくなってやれやれと思うと立てない者もたくさんいた。皆、顔を見あわせてはじめて大きな息を吸った。

 工場の西すみに50キロ爆弾が落ちたようで、大きな穴があいて、建物も木々もすっかり土の中にうまり、そばの建物の窓は吹っ飛んで1枚もなく、壁や天井はくずれおちていた。皆、無事を喜び合って警報も解除になったので早じまいになった。

 工場の南西・南東の方が黒煙をあげて燃えており、淀川の南へ帰るものは、帰れるかどうかわからないということであった。阪急電車はもちろん止まっている。梅田の方がさかんに火災をおこしていた。

 十三大橋まで来て驚いた。橋の中央で折れて大きな穴があいている。幅2メートル足らずの残ったところを皆はってわたっているのだ。下は淀川、高さ何メートルもあるところで足をすべらせば死があるばかり。でも皆わたっている。そうでないものは、すきのあいた阪急電車の線路をわたっている。これも足をすべらせば…。前も後ろも右も左も黒煙と火。私は橋の方をわたった。風が耳の中を通りぬけるようで何も考えないでわたった。傷をおった人やまっ黒な顔をした人、子をおぶった人、皆おそろしい顔をしてわたっていた。

 淀川の南堤についたが、梅田の方へは火勢がはげしくて中津運河はわたれず、そのまま淀川堤を東の方へ歩いた。ありの列が切れることなく続くように人々は堤の上を東の方へ歩いた。右手の中津運河のむこうは時々爆音が聞こえて火勢が上がったり黒煙がふき上げたりしたが、消火活動がされているような気配はなく燃えるにまかすような感があった。たまに東から歩いてくる人があると
「南側に運河がわたれるのか。東はどこまでやられているのか。」
と矢つぎ早に聞き、人垣がわっとできた。どの人も色々言うことが違っていたが、淀川の岸がめちゃめちゃにやられたことだけはわかった。

 毛馬の閘門(こうもん)まで土手の両側は、数えきれないほどの大穴があいて、こわれた家が穴の中にすっぽりうまっていたり、穴の底に人がうずまって足だけが見えていたり、ちぎれた体や手足が土につきささっていた。それを見ている人々、私もふくめて誰も助けだそうともせず感情がない動物のようにただ歩いていた。惨(むご)い、悲しい、かわいそう、怒り、人の命の尊さ、そんな人間としての感情をいっさい戦争は奪ってしまった。今思えば、何と恐ろしいことだ。ただ、家へ帰りたかった。日の長い6月であったが、この時も時折黒い雨がふり、日暮れのように暗い空を人々は見上げることもなく、爆撃のために山のようになった土や瓦礫を踏んで下ばっかり見て歩いた。

 毛馬の閘門は、こわれてはいたが、閘門のコンクリートをはってわたって赤川の方へ歩いた。昔の城東貨物線を歩けば、永和(東大阪市)へ出ることができると教えてくれた人があってその人について歩いた。もう何キロ歩いたか、今日中に帰れるだろうか、ここで空襲に会ったらどこの誰ともわからずに焼かれてしまうのではないだろうかなどと考えながら、ゴミのようにつぶれた家々の間をぬって歩いた。この家々の人は無事だったろうかなどと思いやる暇もゆとりもなく自分だけのことで精一杯だった。

 野江から蒲生まできた時、
「省線が動いているで。」
という声を聞き、疲れた足を早めて京橋へ。京橋はホームへ立つことができないぐらいの人で、何時くるかわからない電車に業をにやして線路へ飛びおりて歩き出す人が数知れず、私も押されるように高い高架の線路の上を歩いて森ノ宮の方へ行った。森ノ宮まで来た時、後ろから来た電車にやっとのことでぶらさがることができた。もう日はとっぷり暮れて、立つのがやっとできるかというほど疲れていた。

 鶴橋についたが、今里、布施で線路がくずれて大軌(今の近鉄)は動かず、途方にくれていると産業道路へ出て東へ帰るトラックへ乗せてもらったらと言ってくれる人があった。

 駅の前で30分ほど立って、やっと枚岡へ帰るという小型3輪トラックの荷台に5・6人の人達と乗せてもらった。若江岩田の坂は、降りてトラックを皆でおした。
 荷台の上で、どこから歩いたのかと聞かれる。やっとひと心地がついて、十三から歩いてきたことを話し、雑のう(布袋)の中に入っていた昼食のそてつの粉のだんごを出して少しずつ食べたが、なかなかのどを通らなかった。
 その人達が話しているのを聞くと、長柄橋の辺りがたいへんだったようで、そこを通って来た私に様子を尋ねられた。大きな爆弾穴がたくさんあいていて水たまりができ、人やいろんなものがいっぱい浮いていたことを話したが、機銃掃射があって多くの人が死んだことは知らなかった。

 女の子一人帰れるかと心配してくれたが、枚岡で降ろしてもらい、それから2キロあまり歩いてやっと家にたどりついた。10時前であった。十三から7時間かかったのである。

 北大阪で大きな被害があったと聞いた母は、若江岩田の駅で電車が折り返しているというので、駅まで歩いて何度も見に行ったらしい。ひょっとしたらと何度思ったことかと私の無事な顔を見て泣いた。
 食べず、飲まずに10何キロの道をよく歩いて帰れたものだと自分でも感心したが、翌日まだ復興していない電車の線路を、また何キロも歩いて工場へ出勤した。

(6)機銃掃射

 6月は、敵機来襲が多かった。正式には、何一つはっきりしたことは市民に知らされなかった。しかし、人々の口から伝えられることは、もう勝つ見込みはなく、生き残ってもどんな目にあわされるかわからないということばかりであった。本土決戦が堂々とうち出されたが、それは皆全滅することだと知りつくされていた。

 大阪市内の焼け残ったところを拾うように爆撃が続き、堺も豊中も守口も布施も南大阪も焼失してほんの一部が残った。それでも大阪城周辺の砲兵工廠がまだ傷つきながらも残っていたのが、何よりも心強いことであった。

 6月、何度かの北部大阪の空襲で省線は度々破壊されて、その度ごとに7キロあまりの道のりを上六から大阪駅まで歩いた。

 ある日、北区役所の仮庁舎からななめに大阪駅前広場を横切った折りのことである。その時は、空襲警報が出ていたが、駅前広場は、かくれるところがない。ところどころ建物疎開の廃材が井げたに積み上げてあるばかりで防空壕もみあたらず、走れるだけ走って阪急の方へ急いだ。

 その時、突然、3機のP51が南から降りてくるのが見えた。バリバリバリ、バリバリバリ、機関銃の音。あっ、うたれる、走っているのであるが、足が動かない。廃材のつんであるトタンのかげにようやくもぐりこんだとたん、バンバンバンと廃材のトタンをぶちぬく音がして、ブーンと急上昇していく。艦載機がひつこく、今一度もどって掃射するのが聞こえた。身動きもできずにいると誰かがその木材のしたからごそごそとぬけ出して、
「木ばっかりや思ってたら、これ死体でっせ。」
と言ったので、びっくりしてはいだすと、木の上に半分焼けたような骨のむきだした死体がならべられていて、すさまじい臭いとまっ黒にはえがたかっているのがわかった。

 今の米軍機も、もうこの世の終わりかと身のすくむ思いであったが、この大広場のまん中にトタンをかぶせられて並べられた遺体の方も地獄を見せられたようで恐ろしかった。 敵機に追われて30センチぐらいしかないすき間に、とっさにもぐりこんだが、それが「だび」の用材であったとは。見わたすと人だかりがしていて、誰かうたれて亡くなったようである。あの人もまた引き取り手がなければ、このようにと思うとたまらなかった。あの臭気は、工場についても鼻からとれず、翌日、そこを通った時は、もう何もなかった。

(7)終戦まで

 8月6日は、広島に新型爆弾が落とされ、多数の被害が出たと7日の新聞に簡単に出ていた。あくる日、たまたまその前日広島の実家へ帰っていて、原子爆弾を遠くから目撃し、広島市内を通って帰阪した工員さんの話を昼休みに聞いた。
「山の向こうから雷光よりも強い光がして、それはものすごい音がして、何か噴き上げるように雲がのぼった。」
というのである。

「1日おいて帰阪の汽車は、広島駅の何キロか手前から動かず、窓はしめられたままだった。広島駅はトタンが張りめぐらされていて、はっきり見えなかったが、やけどをした人が大勢いた。手も足もまっ赤で、皆手の甲にぼろをぶらさげていたが、あれは手の皮がむけてひっついたのではないやろうか。兵隊が『続いてまっすぐ歩け』と言うたので何キロか歩いて、また汽車に乗ったが、どうもただの爆弾やないで。広島は全滅したという人もあった。」

 私達は今までにない異様な切っぱつまったものを感じた。

 長崎にも新型爆弾が落ちたと報じられ、むずかしいポツダム宣言が新聞でとりざたされ、本土決戦に大勢は傾いたと書かれていた。敵機も来襲していろいろなビラが空からまかれた。拾った者はそのまま警察に届けることと言われていたが、皆、下手な日本字のビラを読んだ。その内容は、「沖縄は全滅、占領した。皆投降しなさい。さもないと日本は無くなる。」とか、「家や子どもを失いたくなければ投降しなさい。」と書いてあるとうわさが流れていた。

 8月14日は、ちょうど工場が休みで、(この頃になると仕事をしたくても材料も機具もなく、仕事ができなかった。)朝から八尾に住むHさんが結核でふせっていてお見舞いに尋ねた。10時頃から敵機の編隊の来襲で、動けない友と2人、家の中に残っていた。畑に出ていたご両親が帰ってこられ、あぶないからと畑の防空壕に友を運んだ。間もなく、地ひびきとともに大阪市内に爆撃がはじまった。午後になっても止まない。どの辺りであろうか、と中学生の息子さんの安否を気づかっておられた。艦載機が低く飛ぶので誰も外へ出られず、爆撃に帰ることもできなかった。警報の解除を待つ間に、隣組の人が、
「明日、正午から重大放送があるから、必ずラジオを聞くように。」
と言って帰られた。
「きっと、臣民心を一つにして本土決戦にのぞむということやわ。」
と話し合って、解除しないままの中を歩いて家に帰った。

 京橋で何千人という人が爆死したのは、この日である。砲兵工廠もこの日で原形をとどめず、崩壊して赤茶けた瓦礫の山と化した。これが終戦の前日なのである。もう日本はポツダム宣言をのんで8月15日正午をもって終戦にすると調印していたと後で聞いた。なぜ爆撃したのか、この日に亡くなった人達は、本当に本当に無駄死に、犬死にだったのではないか。戦争とは、こういう惨い惨いものなのだと改めて思い知らされる。

(8)終戦

 8月15日は暑い日であった。関西では、うら盆である。「省線は昨日の空襲で復旧の見込みはたたない」とはり紙があり、市電の通っているところまで歩いて梅田へ行き工場へついた。

 朝会があって、正午に重大放送があるので一同顔と手を洗って集合するよう申しわたされた。正午、会議室に全社員が集まって整列した。

 君が代が流れて玉音放送であると告げられ、終戦の詔勅が流れた。が、「天ゆうをほゆうし…」というのは聞き取れたが、後は雑音がガーガー入ったのとむずかしい勅語で何を意味するのかわからなかった。詔勅が終わるとベートーベンの運命の曲が流れた。

 社長、副社長が涙ぐんで、手で顔をおおった。副社長が、
「今、天皇陛下の御声で、しのびがたきをしのび、耐えがたきを耐えて、ここに戦を終結するとおおせになった。戦争は終わったのである。」
とふりしぼるような声でいわれた。私達はつられて涙ぐみ、中には声をたて、泣きふした。皆、泣いた。

 しばらくして人事課長が、
「これからどうなるか、今は何もわからない。とにかく、明日は出勤するように。」

私達は、食堂で砂をかむような昼食をとり、作業場にもどったが、誰も仕事はできなかった。

 米軍が上陸してくるのかという話もでたが、誰も口をつぐんで応えなかった。帰りは梅田に出て、省線が桜宮まで動いていたので乗ろうとホームに上がろうとしたが、足が上がらなかった。やっとのことでホームに立つと暑い駅前広場は人が右往左往して、コウモリ傘が4つ5つ立っていた。それはブリキ缶に入れた黒砂糖を売っているのだというのがわかったのは、3・4日もたってからであった。10日もたつと広いこの広場や天王寺、鶴橋の広場は、物を売る人と買う人でごったがえすようになった。戦後のやみ市である。

 その後、どのようにして帰ったか、いくら思い出しても思い出せない。この夜は何年かぶりで家中電灯をつけた。それはもうまぶしくて、もったいなくて、そして恥ずかしかった。この日は十五夜の月が出て涼しい秋の気配を感じさせ、今まで気にもしなかった虫の声が聞こえた。空はあくまでもすんで、生駒山は月光の中に静かであった。

「国破れて山河あり…」というのは、今日のようなことをいうのだとしみじみ思った。

 西の方を見ると、点々とともった灯は宝石のように美しかった。何年ぶりかに見た街の灯。今日から本が読めるとうれしかったが、あまりにも明るすぎて暗い世界にならされていた者にとっては、かえって不安で落ち着かなかった。耳の奥でサイレンの音がなるような気が何度もした。

 その夜、はじめて行水にゆっくりつかり、もんぺを脱いで床に入った。
 明日からどうなるのか、米軍が来たら女は皆連れて行かれるのでは…などと考えてなかなか眠れなかった。

 満州へ行っていた兄も帰ってくるだろうと、母はその日から毎日帰りを待った。士官学校の生徒だった兄は「天皇の玉音盤をわりに行った」と後で話していた。兄がみすぼらしい姿で復員したのは、9月の中頃であった。

(9)書き終わって

 これは、私の17才から19才の1年5か月あまりの記録です。遠い記憶をたどっていますので、多くの事がごちゃごちゃになって、日時など定かでありません。他の戦争の記録を参考にして正確な日時を…と入れましたが、前後しているかも知れません。

 人生の一番多感な時に、夢も希望もない毎日を一生懸命に生きた記録です。これを書きながら、この時代を決してなつかしく思ってはいけない。尊い命が何百万と失われて、戦った者も残った者も人間としてまともに生きられなかった戦争を二度とおこしてはならない。一部の権力者のために弱者は決して屈してはならないと思いました。

 女は弱いけれど、子どものために母は強くなれます。小さい力でも皆が力を合わせて、この平和を正しく守っていきたいと思います。

「戦争を知らない婦人に贈る 第3集 今、語っておきたい私の体験と平和への願い」城北支部婦人部/1988年発行/所収

(10)追記

 

 私がこの文を書きましてから早15年近くなります。21世紀を迎えて2年。暑い8月に改めて読み返しますと書き足りなかった事が一つあります。それはくる日もくる日もひもじかった事です。お金があっても食べられなかった事、野菜のかわりに野草をつんで食べた事(よめな、スカンボ、おおばこ、あかざ)南瓜の葉茎もさつまいもの葉もお腹のたしにしました。醤油も味噌もさとうもなくて塩味だけの食事が何日も続いたこと、家族がどんな少ないものでも分けて食べたこと、また、かくれてぬすんで食べたこと、母はいつも一番少ししか食べなくて倒れてしまった事等思い出します。だまされてヘビもカエルもカワニナも食べました。イナゴも川の小魚も食べました。今、グルメ飽食の時代、テレビで食べ物をそまつに投げ合ったりするとあの頃を思い出して腹が立ちます。

 日本は憲法で戦争を放棄しました。その事、決して忘れたり改正したりしてはなりません。やがて戦争を知らない人ばかりの世になります。核の恐ろしさ、爆弾のこわさ、命の尊さを皆で後世に伝えて正しい平和を守ってくださることをお願いいたします。

2002年8月

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