大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

ぼくは大阪の大空襲を見たよ

ふるしょう ゆうじ(元 八尾市立中学校教員)

 小学校の2年生ももうすぐ終わりという3月。

 そのころはよく警戒警報のサイレンが鳴り、いつでも避難できるように避難袋が用意してありました。服の胸にも大きな名札が縫いつけられ、その木綿の白いきれには墨で住所・氏名・生年月日・年齢、そしてかならず血液型が書いてありました。

 台所につづく居間は4畳半です。足を折りたたんで片づけのできる丸いお膳(ちゃぶ台=食卓)の上には天井から電灯が下がっていました。60ワットか40ワットの電球です。乳白色のガラスの電気のかさには風呂敷のような黒いきれがかぶせてあって、空襲警報になると窓の外に光が漏れないように、部屋の明かりをお膳の上だけ照らすようにするのです。薄暗い生活にはなれていました。

 ぼくの住んでいた阿倍野区昭和町は大阪市の東南部にあり、東住吉区とともに大阪市のいちばん外側だったのです。だから畑地もたくさんありました。畑につきものの肥やしの匂いも普通のことでした。道には荷馬車が行きかい、時には牛の引く荷車も通りました。もちろんバスや自動車もありましたが戦争のためにうんと少なくなっていました。

 3月13日、その夜の空襲警報のサイレンはいつもと違ってとても差し迫った感じでした。4畳半の居間で避難袋と水筒を両肩からななめにかけ、防空頭巾をかぶって、家の外の道路にある隣組の防空壕に急ぎました。もう近所の人達がたくさん入っていて入り口のあたりしか空いていませんでした。奥のほうにはたくさんの人がいるのですが、真っ暗で中の様子はわかりません。壕の外では隣組の人たちが「早く避難してくださ~い」とメガホンで大声に叫びながら、逃げ遅れる人のないように町内を駆けまわっていました。

 壕の入り口近くには母がいたのでしょうか姉がいたのでしょうか、よくわかりませんが、居心地の悪いところでがまんして膝を抱くように座り込んでいました。ときどき慌ただしく人の出入りがあります。その度に騒がしい人声や物音と意外に明るい外のようすが気になりました。

 どれくらい時が過ぎたのかわかりませんが、おしっこに行きたくなりました。空襲警報中です。何が起こるかわかりません。もう外にでることの許されない状態だったのですが、人でいっぱいの壕の中でするわけには行きません。外をうかがっていた人から「すぐ戻ってくるねんで」と出してもらえました。

 外のさわがしいようすはさっきと変わらないようなのですが、空の色が桃色なのです。隣近所の家々が影絵のように見えました。夜の空は、曇っていて低い雲が空いっぱいに広がっていました。その雲に下から照明をあてたかのように空全体がなんとなく薄暗い桃色になっているのでした。大声で何かをいいあっている人の声にかさなって、もっと大きな音がゴーッと響き桃色の空をまっ黒な何かが通り過ぎました。また来ました。また続いて。四ッ角にたって上を見上げていると次から次へと大きな飛行機、アメリカのB29が何台も何台も飛んでくるのです。西の阿倍野のほうから股が池のある東のほうへどんどん飛んでいきます。飛行機のごう音と重なるようにドスン、ドスンとおなかに響く地響きがかさなり合ってきます。よく見ると通りすぎるB29からバラバラと黒い粒のようなものが落ちてきます。

 その時です、少し遠くの東のほうにある南向きの家の二階の窓が一瞬黄色い光に輝いたかと思うと真っ赤な炎を上げて燃え始めました。落ちてくる黒い粒の一つが命中、大屋根をつらぬいて二階で炸裂したのです。火は隣の家に燃え移って行きます。焼夷弾というものが一軒の家を丸焼けにするものすごいものだと初めて知りました。四ッ角からは燃えている家はそんなにたくさんは見えませんでしたが、後で聞くと、この時、大阪市の中心の市街地は、ほとんどがこの焼夷弾と爆弾で大火災が引き起こされ、真っ赤な炎とまっ黒な煙を吹き上げて燃えていたのだそうです。その大火災の炎の色が雲を下から桃色に照らしていたのでした。

 いつどうして壕にもどったのか覚えていません。隣組の人に叱られた記憶もありませんし、むりやり防空壕に引き戻された記憶もありません。おしっこをしたかどうかも覚えていません。どのように壕の中で朝までねむったかのかもわかりません。おしっこをしに外へ出たときの空襲のすさまじさの印象だけが記憶にのこっているのです。

 次の朝、どんよりと曇った通りに焼け焦げたヘンな匂いが立ち込めていました。焼跡独特のにおいです。我が家に戻ってみると、裏の狭い庭に見たこともない金属のかけらがいくつも落ちていました。焼夷弾を束ねていたベルトだとか、焼夷弾そのものの一部だとか、大人のひとがいろいろ教えてくれました。ぼくの家は助かりました。隣近所もたいてい助かったのですが、東の並びは5・6軒先からむこうが道をはさんで向かい合わせに焼け落ちていました。焼夷弾で焼けた家々はまだ燃えくすぶっていました。おうちの人はどうしたのでしょう。

 あとで、焼け跡を見に行って驚きました。二階建ての大きなおうちが燃えてしまって何一つ残っていません。くだけた屋根瓦とまっ黒な灰がすべてです。柱や棟の大きな木材、家財道具もすべて燃え尽き、台所と思われる辺りには醤油びんやお酒の一升びんが溶けて緑色のガラスのかたまりに変形しているばかりか、お皿や丼(どんぶり)までが溶けて変形しくっつきあい、もとの形を残していないのです。水道の鉛管から水が吹き出しているところもありました。ブスブスと蒸気や煙が出ているところもありました。

 あぶないから焼け跡に入ってはいけないときつく注意されました。

 おとなになって聞いたところでは、この3月13日夜から次の朝にかけての一夜の空襲で大都市・大阪の中心部はほぼ燃えつき、被災した人は50万人、亡くなった人は 4000人にのぼり、家を失った人たちが大阪府の田舎や奈良県や京都府などの親戚知り合いを頼って落ち延び、ぼろぼろになって道を歩く姿は山を越え川を渡って長く長く続いたそうです。

 その後の毎日の詳しいことはなかなか思い出せません。

 3年生になってすぐに集団疎開に行くことになりました。親元を離れて3年生の40人ほどが2人の先生に連れられて、いなかのお寺に行って暮すのです。いつまで? わかりません。とりあえず、空襲の危険がある間は帰れないのでしょう。すでに2年前から縁故疎開といって、遠くの田舎に親せきのある人は親戚や知り合いをたよって市街地を出て行っていました。(4年生の兄もこの時は縁故疎開で静岡県の興津にいましたから、大阪の大空襲を見ていないのです。)空襲の危険を避けるために今度は8歳や9歳の子どもまでもが家を離れるのです。この子どもたちをつれて行ってくださった先生方も大変だったことでしょう。

 昭和20(1945)年の4月ですから、日本がこの戦争に負ける4か月ほど前のことでした。

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