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私の戦争体験

藤田 拡(元 大阪市立横堤中学校)

 今年も12月8日がもうすぐやってきます。今夜も家族が食卓を囲んで楽しく団らんのひと時を過ごし今日1日の体験を出し合いなごやかに夕食を終えたところです。

 平和な日々を、水や空気の様に享受している私にも、45年前の恐ろしい米軍の空襲は忘れることはできません。

舞鶴港内の自衛隊イージス艦「みょうこう」

 私は舞鶴旧軍港に近い片田舎の街・宮津に生まれ、国民学校2年生の時終戦を迎えました。

 幼稚園に入園し教育を受け始めた頃は、太平洋戦争の初期で日本が東南アジア諸国を次々と陥落させ国中が戦時色で沸き立っている時でした。習う遊戯も「がんばりましょう 勝つまでは」「兵隊さんよ ありがとう」と歌いながら踊り、それを映画館の舞台に昇って,水兵服を着て街の皆さんに踊って見せたことを今も忘れることはできません。

 国民学校1年生となり、「少国民」として、紺色の制服と制帽、そして革靴に身をかため学校の校門をくぐるとすぐ左側にある「奉安殿」に(天皇の写真と、教育勅語が始められていた所)最敬礼をして、毎日登校していきました。男の先生達はみんな「国防色」と言って少し緑色がかかった茶色の軍服を着て足にはゲートルを巻いた姿でした。女の先生達は、下半身はみんな「もんぺ」姿でした。教室での勉強は軍国主義教育一色で「ヘイタイサンススメススメ」を何回も読まされました。廊下を巡視して来る配属将校は、サーベル(軍刀)を腰につり、長い軍靴をはいて「ガッツ、ガッツ」とやってくるので、本当に恐ろしかったです。

 戦況が逆転し本土への空襲が始まると、私たちの服装も防空頭巾(ずきん)とモンペ姿に変わり、夜になると灯火管制でうす暗い電灯の真下で夕食を食べました。舞鶴軍港を封鎖するために、毎夜10時頃になるとB29が若狭湾に機雷投下に飛来し、それを迎え撃つ高射砲の音とサーチライトの光線が、なんとも不気味で、防空壕の入り口からこわごわ首を出して空を見上げていました。毎晩、このように米軍機の来襲で安心して睡眠をとることができませんでした。最も恐ろしい空襲に遭(あ)ったのは、敗戦も間近の7月30日。舞鶴軍港を避けて宮津湾に入港していた日本海軍の艦艇を襲撃に、約30機のグラマン戦闘機か襲いかかって来ました。軍艦との交戦だけでなく、街を歩いている人や田や畑で仕事をしている人達をめがけて機銃掃射や、爆弾投下をしてきました。

 私の家族は父が軍の徴用で毎日、舞鶴へ通勤していて不在でした。3つ年上の姉と4つ年下の妹とは、ラジオから放送される警報を聞いて、家から10分位の所にある防空壕に待避したのですが、母と祖母と赤ん坊の弟と私の4人は、逃げ遅れて家の中心で布団をかぶって、爆撃の治まるのを今か今かと待ちました。機銃掃射の音、窓ガラスが破れる音、屋根瓦に銃弾が当たる音が聞こえる度に、母にしがみつき、「助かるかなあ」と半泣きになりました。そして最後に「もう生命はここまで」と思ったのが、私の家から60メートル位の中村君の家に30キロ爆弾が命中した時でした。震動で私の身体が1メートルほどほり上げられたように感じ、すごい爆風で窓ガラスが粉々になって吹き飛んでいました。私たちは布団をかぶっていたので怪我(けが)はまぬがれました。

 やっと爆撃が小康状態になったのを見はからって、姉達が待避している防空壕へ逃げるために戸外へ跳び出してびっくりしました。今まで見た事のない光景が広がっているではありませんか。道路は瓦と壁土で覆われ、その上を走っていくと肉の塊や内蔵の一部が落ちていて、たれ下がった電線をたどって上を見ると人の腕がひっかかっていたのです。道に横たわる障害物を跳び越えて必死で逃げました。今から考えると地獄の中を逃げまどっていたのです。やっと壕にたどりつき、近所のおばさん達の話を聞いていると、友達だった中村君とお母さんが直撃弾を受けてなくなったことがわかりました。先ほどコノ目でみたのは、2人の肉体の一部だったんだと知り、もしも爆弾が私の家に命中していたら、自分があんなになっていたんだと思い、恐ろしい気持ちに襲われたのを憶えています。しばらくして姉達が青ざめた顔をして壕の奥から出てきたので私はほっとした気持ちと、なんでそんな顔をしているのか不思議に思っていると、姉達の後から2人の子が巡査さんにおんぶされて出てきました。この2人は息はしていなかったのです。姉の話によると、壕の真上の山腹にも爆弾が落下し、壕の奥深くに入っていた2人が落盤した土砂で生き埋めになって亡くなったそうです。近くのお医者さんの娘さん姉妹で、不運な2人にみんなが涙を流しました。後で聞いた話では、田の草取りをしていたおじいさんも機銃で射殺されたそうです。夜になり父が舞鶴から帰宅し、私たちを壕まで迎えに来てくれました。この時は1日の緊張がほぐれ、何ともうれしい気持ちになったのを覚えています。

 この爆撃の数日後に、母の郷里に疎開し、そこで8月15日を迎えました。私は川で遊んでいて玉音放送は聞きませんでした。母の兄さんは中国で戦死して帰ってきませんでした。広島・長崎の惨状は終戦後になって少しずつ知らされ、て、その恐ろしさは、私達には、なかなかわかりませんでした。

 戦後の生活は食糧難で親子ともどもほんとうに苦労しましたが、生命をなくした人達やその家族の事を思えば、その苦労は苦労の内に入らないように思います。 幾百万の尊い生命を奪った戦争。

 その反省に立って「教え子を再び戦場に送るな」と誓った私達は、今またごり押しされようとしている軍国主義教育や自衛隊の海外派兵に、断固として反対していこうではありませんか。

 つたない戦争体験記録が反戦平和の教育にお役に立てばと思って書きました。

「戦争を知らない婦人に贈る第4集 今、語っておきたい私の体験と平和への願い」
城北支部婦人部/1991年発行/所収

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