大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

よくぞ生きのびれた

安東静江さん(都島区在住)

 私は都島北通、今の旧国道都島本通りのマツヤ電気の裏の筋で被災しました。

 その日(1945(昭和20)年6月7日)は、朝から警報(警戒警報?)が出ていて、すぐ空襲警報が出て、何をする間もなく手ぶらでした。二階のひさしに焼夷弾が落ちてきました。表の国道へ出ましたが、都島車庫の方(西)は真っ黒い煙で大空おおわれ皆右往左往。大八車で荷物を持ち出す人達で混乱していました。母と私と姉が甥を背負って逃げました。時々防火用水の水でタオルをぬらして甥の口にあてながら東へ東へと走って逃げました。どの位走ったでしょうか。門真あたりだったか、農家の様だったと思います。声をかけられ一晩泊めていただきました。その時、母が声をかけいっしょに逃げてきた人たち5・6人も一緒に泊めて頂きました。

 翌日、避難場所になっていた榎並小学校まで帰ってきました。父が待っていました。あまりにも遠いところまで逃げたものだと。

 家はもちろん、がれきと化した焼け跡でした。馬が1頭、立ったまま死んだ姿が目に焼き付いています。防空壕から出した少しばかりの品物を父の姉が住む西淀川の方へ運んだも束の間、空襲にあい、それこそ着のみ着のまま、今度は母の妹の住む東住吉区山坂神社の横で同居する様になりましたが、母がとても恐がりますので父の姉が兵庫県佐用郡徳久村にいて、そこの空いている納屋を借りてそこから大阪へと行ったり来たりしていました。

 そんな時、京橋駅(昔の国鉄)で空襲にあい、駅舎の中を爆風のたびに右に左にとばされ、恐ろしい目にあい、京橋の橋の上の枕木をはうようにして歩いて東住吉まで帰りました。

 また、明石で空襲に遭い、汽車をおろされましたが、建物のあるところまで必死に機銃掃射をのがれて逃げました。ほんとうに恐ろしい思いをして来ました。よくぞ生きのびれたと思っています。いまある人生を大切に生きたいと思います。

 戦争絶対反対。

 9条改悪は絶対に反対。がんばりましょう。

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