大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

平和を守りきる力を

明山 久子(執筆当時 放出中学校教員)

 私は昭和7年1月生まれである。まさに満州事変・上海事変と共に生まれ、戦中を育ってきた。昭和12年廬溝橋事件から日中戦争に突入した年に小学校に入学した。昭和15年小学校3年のとき、紀元2600年という祝典が盛大に行われ、「紀元は2600年」という歌と橿原神宮が立派に整備されていった。神話の神武天皇の東征、金のとびの話、元寇の神風など何度も学校で聞かされた。昭和16年12月8日真珠湾攻撃より大東亜戦争(あえて当時風に)は始まった。大東亜共栄圏の建設のため、という大義名分で「駆逐米英」「打ちてし止まむ」「欲しがりません勝つまでは」それ以外のことは私のまわりで考えることはなかった。

 昭和20年8月15日は私の女学校2年の夏であった。私は一人娘であり、母の教育観から幼稚園から住吉区の私立校に電車で通っていた。もとは院長が英米に留学して松林の中に設立した学校で小学校1年から英語があり、夏には仁川(兵庫県)のコロニー(学宿舎)に宿泊をして、6年にもなれば、1ヶ月をコロニーで過ごすというような学校であった。しかし戦争と同時に英語はなくなり、コロニーにも行けなくなった。5年で国民学校令にしたがった教育に変わった。でもまだ白浜での1週間の林間学舎や助松でのキャンプは初等科6年まで行われていた。

 お米やおやつは家庭から供出してそれを皆で分け合って行事が実施されていた。学校ではたいへんな努力であっただろう。しかしとうとう小学校の修学旅行はなくなってしまった。その頃にはクラスに数人はいた外国人や混血の子もいなくなっていた。

 女学校に入学する頃には男の先生も出征してほとんど女の先生になっていた。1年先輩は学徒動員で女学生も皆軍需工場に働きに行っていて、1年下からは、個人的に又は集団で学童疎開をしていた。学校からは今の奈良県の学園前に疎開しており、私の学年だけが学校に残っていて、学校の近所の家を疎開するための打ちこわしを手伝ったり、農園や運動場にいもを植えたり、空襲のあとの焼けあと整理をしていた。学校は広い地下室があったためか、軍司令部に半分接収されていた。少しの勉強もないのに、まじめに登校して草や茶がらを供出してつくった真っ黒なパンを1つもらって帰った。帰りはほとんど電車が来ずに2時間近くかかって歩いて帰ることが多かった。南海電車も木炭をたいて煙をはきつつ走っていたし、数少ない車も木炭自動車であった。帰宅途中空襲警報が出てB29を見上げながら家のかげづたいに走って逃げることも何度かあった。機銃掃射を受けて生きたここちのない時もあった。空襲といえば20年2月1日、雪の降っていた夜、木津川沿いの造船所の空襲でそれた爆弾が親せきの家に直撃し、学童疎開をしていた子ども2人と警防団に出ていた父以外家族5人が防空壕の中で圧死した。それが空襲の恐ろしさを知った初めであった。

 3月13日の空襲も十三軒堀川(今は玉出-津守の高速道路)の堤防沿いに掘った防空壕から防空頭巾を着てのぞいていた。雨の降る如くザァーと焼夷弾の落ちる音を聞き、真っ赤に染まった空を美しいものに見とれるようにボゥーと眺めていた。その後も毎晩数回の空襲警報にもなれてしまって近くですごい爆弾の音がしても平気で寝ていたようである。

 6月1日の空襲でとうとう町工場であった私の家の工場も焼けてしまった。家は焼け残ったものの荷物などは防空壕に入れてあったため、戦後すぐのジェーン台風の水害によって泥水につかってしまった。

 大阪や堺、神戸が焼きつくされ始めた頃から父と母は夕食のうすぐらいろうそくの灯の下で何かヒソヒソと話し合っていた。それは日本が負けるのとちがうかというようなことだったと思う。大荷物を身体の前後にくくりつけて母と池田の奥の笹尾という所へ通うことが多くなった。途中、空襲で淀川にかかる十三大橋がこわされたらというので梅田から池田まで歩き、さらに馬力の荷車の後に途中までのせてもらって、一日歩きつづけてやっと笹尾についたこともあった。今の中2の1学期にあたる女の子であり、極端に栄養の悪い状態の中である。敗戦の日は隣組の人が皆私の家に集まってガァーガァー雑音だらけの玉音を聞いていた。よくわからんが日本が負けたらしいというのである。翌日、父に敵兵が上陸してきたら女子どもはどうなるかわからないからというので、朝早く疎開先へ行くようにいわれて9月始めまで田舎にこもっていた。

 でも、何事もなく帰阪して学校に行ったら軍司令部のあとに進駐軍が駐留していた。生徒もぼつぼつ戻ってきたが戻ってこなかった人達もたくさんいた。教科書は全部学校に提出し、かわりに1枚の黄ばんだ悪質の紙に印刷したものをもらってそれを折りたたんで自分で切って教科書をつくった。女学校4年のとき、新制となり、女学校5年で卒業の人もいたが、新制高校3年に残り、新制大学の2回生となったのである。

 食料のこと、衣料のこと、いくらでも話したいことはあるが、当時としては考え方も何もそれが当たり前であり、私などはめぐまれていた方なのである。今、飽食の時代に、私たちの世代は何でももったいなくて捨てられない習性がついてしまっている。しかし、どんな時代がきてもしぶとく生き抜ける自信のようなものがある。今この平和のありがたさを当たり前としか解らない世代に、平和を守りきる力を育てたいと願うのである。日本が戦争に突入していく時代、何も知らない子どもであったが、今、歴史を正しく学ぶことによって、現在、昭和初期の歴史が繰り返されはじめているように思えてならない。科学技術が進んでも人の心の動きは大昔から変わらないのではないか。

「戦争を知らない婦人に贈る 第1集 今、語っておきたい私の体験と平和への願い」
城北支部婦人部/1986年発行/所収

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