大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

6月7日 集成高女の悲劇

   

 

  旭区太子橋と守口市緑町にまたがって、かつて集成高等女学校がありました。守口や旭区など近隣の女学生が学んでいました。

 阪神高速道路守口線は、このあたりでは江野川を埋め立て、その上を走っています。太子橋小学校のすぐそばに残る「緑橋」がかつて川だったことを示しています。江野川の北川に集成高等女学校がありました。今は大阪府住宅供給公社と守口幼稚園になっています。

 大阪集成高等女学校は、1939(昭和14)年、日本女子専修学校として創設、1944(昭和19)年、大阪集成女子商業学校に昇格、1945年4月、大阪集成高等女学校となりました。しかし、その3か月後、6月7日の空襲は、集成高女にも襲いかかり、校舎は全焼。防空壕への直撃で先生1人、生徒7人の犠牲者をだしました。

 1945(昭和20)年6月7日11時9分から12時28分までの約1時間半、アメリカ軍の大型爆撃機(超空の要塞)B29、409機が大阪を爆撃しました。護衛のために硫黄島から戦闘機P51ムスタング138機も加わっていました。今で言う第3次大阪大空襲です。

 大阪市西部・中心部はすでに焼き尽くされ、アメリカ軍の計画では、焼夷弾爆撃の目標地は都島区高倉町、国鉄(今のJR)鶴橋駅、天王寺駅、大型爆弾の目標は大阪陸軍造幣廠(いわゆる大阪砲兵工廠)でした。

 その日の大阪上空は一面の雲に覆われていました。雲量10。B29搭乗員は、目標を目視できない場合レーダーによる爆撃を行うことになっていました。B29のレーダーは、最新のものではありましたが、海と陸地の境目がはっきり見える程度で、都市の姿をとらえるまではできません。そのため、ほとんどの爆弾が都島区、旭区、東淀川区(今の淀川区含む)淀川両岸に投下され、P51の機銃掃射も淀川両岸に集中しました。

 1トン爆弾、500キロ爆弾、焼夷弾が降り注ぎました。

 集成高女では34年生はすでに勤労動員で府下の工場へ出ていました。6月1日からは2年生も大和田銃器などへ勤労動員に行き、学校に残るのは1年生だけでした。

 朝礼が済んで教室に入ってまもなく、空襲警報のサイレンが鳴り出し、生徒達は7つの防空壕に逃げ込みました。降り注ぐ焼夷弾で校内に火の手があがりました。1号壕に焼夷弾が直撃し、先生1人、生徒7人の犠牲者をだしました。

 学校と淀川堤防の間の麦畑へ走り込むもの、服についた火を消しながら逃げ出したもの。やがて、負傷者は医専病院(大阪女子高等医学専門学校、今の関西医科大学)に収容されましたが、そこで亡くなった生徒もいました。

 空襲で全焼した学校は、仮校舎で学習したものの1949(昭和24)年3月末で廃校。9期生までを送り出した短い期間の学校となりました。

 今は、「学校法人 大阪集成学園 守口幼稚園」の名前だけがかつての集成高女をしのばせるものとなっています。が、幼稚園と高女は直接の関係はないそうです。

(「旭区平和のための戦争展2006」での小井戸茂さんのお話を参考にしました) 案内人 柏木 功

↑上へ