大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

生江 平和観音

 城北公園横、常宣寺と大阪市立白寿荘の間に「平和観音」がたてられている。1945年6月7日の大阪大空襲とその中での城北公園での悲劇で亡くなった生江地区の人々を慰霊するために建てられている。碑文には当時の様子が生々しく記録されているので紹介する。

碑文

 昭和16年12月8日(1941年)未明日本国政府はあのいまわしい恐怖と欺瞞に充ちた無謀な太平洋戦争を引き起こし数百万人いや数千万人の貴重な人民の生命を奪い去ったのである。
 そして昭和20年8月6日(1945年)に人類がもっとも恐れた核爆弾が広島に投下され一瞬にして生きるものを全焼きつくした。3日後長崎に投下、長かった第2次世界大戦に終りを告げたのである。
 我々に残されたのは赤肌な瓦礫の山、飢えと寒さ、住む家もない焼け野原、おびただしい数と量の血と死、墓と涙の爪跡をもたらしただけのいかに無意味な戦争であったかを、目撃者である我々が語り伝えるために。そして、永久平和の為に……

 昭和20年6月7日(1945年)午前10時15分、生江地区の人々の悲劇の日がやってきた。サイパンを飛びたった300機にのぼるB29アメリカ空軍爆撃機の大阪最後の空襲であった。早朝より敵の来襲を知らせる警報のサイレンが不気味な音を響かせ、初夏の空に鳴りわたる。遠くで爆弾が炸裂するのがドドーンと地面を叩くのか、抉るのか、鈍く重い音が足もとから伝わってくる。まもなく雲間に数機の爆音が聞こえてくる。何事もなかったように、白い飛行雲を残し、次から次へと生江の上空を北に向かって飛び去っていく。誰れかが大声で「逃げろ…」と叫ぶつかの間、キーンと耳を抉る金属音が頭上より背筋を通し伝わった。その瞬間、ものすごい炸裂と地響が起こる。人々は地面に叩きつけられ声もない。家屋はそのまま空中に舞いあげられ、粉々に飛び散り落ちる。真黒い煙が竜巻のように舞い上がり火の粉が散る。なおも空から容赦なく爆弾が不気味な金属音をたてながら黒く白く光りながら雨の如く落ちてくる。ここかしこで火の手があがる真っ赤に空を焦がす熱気が突風を呼び、その風の物凄さ、猛り狂う炎の色、真昼を暗黒化にし生江地区を壊し、つつみこむように周辺は火の海となった。火の粉に地区内に落ちてくる炎と煙に追い立てられた何千人もの人々がぞくぞくと城北公園めがけて着のみ着のまま泣き叫び、転びながら逃げてくる。それを待ち受けていたかのように戦闘機数機が黒煙の中より現れ、淀川堤防すれすれに飛び交い、避難してくる人々めがけて機銃弾を浴びせ殺したのである。

 ある者は土手や池の端、木の繁み、ある者は園道にうずくまり、足をぶち抜かれ、足をもぎとられ、腹を抉られ、顔をとばされ、その肉片からしたたり落ちる血で大地を染め、乳呑み子から老若男女が水をもとめて這いづりまわり息たえる者、母と子がしっかりと抱き合い身動きもしない。髪をふりみだし「雲が燃えている」と泣き叫ぶ女の子、恐ろしさにお経を口ずさむ老人、爆弾の雨が音をたてながら木々をゆさぶり、人々におそいかかる。炎が黒雲を呼び、雨を呼び、地獄絵が数時間も続いて終わった。

 遺体は常宣寺に運ばれたが、足の踏み場もないぐらい本堂にも庭にも並べられ、収容できずにそのまま外に数日間放置されていた人々もあった。地区内の家々から帰らぬ我が子、父母の名を呼ぶ悲しみの声が幾日も続いた。遺体は淀川土堤に運ばれ、油をぶっかけられ火葬にされ、その煙が夜も昼も休みなく何日も続いたのである。戦争に駆り出され散っていった我々の親兄弟、家を守った母と子の尊い命が奪われていった……。

 そして三十三年の歳月が流れ、今我々が生きていることを喜び合い、また戦争を知らない若い世代に何んの意味ももたない戦争という悲劇を繰り返さないための手がかりを我々の手で残さなければならない。また我々の先輩が部落解放とすべての人民の解放を叫び多くの血を流し、闘い続けた運動の歴史を受け継ぎ、平和と人権尊重の精神を守り続けるため、真実を教え、真実を語り、真実を伝え、この惨劇の歴史と、ここに刻みこまれた犠牲者とともに永久に銘記するものである。

1977年11月25日

(案内人 柏木 功)

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