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不発弾の発見と処理(旭区)1995年

不発弾がみつかったあたり。向こうに阪神高速が見える。
その向こうは城北公園・菅原大橋に行く。

 1995(平成7)年6月17日の朝、旭区高殿の道路で送電線の工事をしていた時に地下2.1mのところで爆弾が見つかった。ちょうど50年前の6月7日、アメリカ軍爆撃機B29が投下した1トン爆弾がたまたま爆発せず、そのまま地中に残っていた不発弾であろう。

  不発弾は長さ1.8m、直径0.6mの1トン爆弾で弾頭と弾底に信管という起爆装置がついており爆発する危険性のあるものだった。

 年7月2日の午前10時から12時までの2時間に現場から運び出されることになり、当日は旭区民ホールに旭区長を本部長とする対策本部がおかれた。現場から半径300mの範囲は立ち入り禁止となり、少し離れた学校や老人憩いの家が避難場所に指定された。避難を知らせるためにビラが各家に配布されるとともに、市役所・警察・消防署の広報車が知らせて回った。

 当日は下の地図の立ち入り禁止区域の市民は全て避難し、道路は通行禁止となった。そればかりでなく、上空を通過する伊丹空港に着陸する飛行機のルートの変更も検討された。

避難世帯 旭区  約3,152世帯 8,078人
都島区  約 745世帯 1,892人

 たった1発の1トン爆弾を処理するために、これだけのことをしなければならない。

 旭区・都島区への空襲は1945(昭和20)年6月7日11時9分~12時28分(約1時間半)であった。B29 409機が大阪を爆撃した。爆撃機の4分の3は焼夷弾、4分の1は2000ポンド爆弾(日本で言う1トン爆弾)と1000ポンド爆弾(同500キロ爆弾)を積んできた。爆弾は大阪砲兵工廠のコンクリートを破壊するためであった。米軍の報告書では「目標地点上空では視界をさえぎる雲が生じ、全爆撃はレーダーによって行われた。」とされている。砲兵工廠を破壊するための1トン爆弾が都島区・旭区・淀川河川敷などにばらまかれたのである。その時の悲惨さはたいへんなものであろう。戦後も淀川河川敷や高倉小学校の校庭、高殿南小学校の北側あたりには爆撃でできた穴があいていて、水がたまり「爆弾池」といわれていた。1948年に米軍機から撮影した航空写真には、それらの穴がはっきりと写っている。

 不発弾処理にあたって旭区で配布されたビラ(地図)は次のとおり。

都島区で配布されたビラ(地図)はこちら

避難のお知らせ

 1トンの不発爆弾が、旭区高殿2-2-19号地先で発見されました。
 7月2日(日)午前10時00分から陸上自衛隊により、不発弾の撤去作業を行います。
 不発弾撤去作業中は、万一の場合に備え、不発弾の処理地点から半径300m以内は立入禁止になります。
 立入禁止区域内に居住、または勤務されているみなさんは、全員避難していただくことになりますので、ご協力をお願いいたします。

 避難日 7月2日(日)《雨天決行》
 避難時間 午前9時00分~12時00分

《撤去作業時間 午前10時00分から12時00分完了の予定ですが、避難解除については撤去作業完了後になります。》

 避難場所 旭高等学校・旭陽中学校
      高殿小学校・生江小学校
      大宮西小学校     

※ご注意

 1.撤去作業中は、区域内立入禁止です。
 2.電気・ガス・水道は、完全に止めてください。
 3.火の元・戸締まりには、充分ご注意ください。
 4.指定避難場所、または立入禁止区域外に避難してください。

☆ なお、周辺道路は、撤去作業中は交通規制(一部通行止)を行いますので、ご注意ください。また、車での避難は、事故防止のため避けてください。

(案内人 柏木 功)文

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